大学院卒ニート、しやわせになりたい。

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はてなIDとアイコンの個別の歴史の積み重ねと個としての増田とシステムとしての匿名ダイアリ。

yarukimedesuという個別IDと手描きのイラスト。どのようなイメージが周囲から持たれているか分からない。ジャンプの感想ばかり書いている人。著作権問題で会社社長に言及記事を書いて大炎上した人(今思うと炎上じゃないかも知れないけど)、何かやりそうでやらない人、演劇をやっている人…。

どの時点から私の個別IDを認識して、どういうイメージを持っているか?それは、私に限らず、インターネット上の「個」の存在は何かしらのイメージを持たれているだろう。

イメージ。

最近、モヤモヤと考えていたことを「えいっ」と一気に書いてみるテスト。

はてなIDとアイコンの個別の歴史の積み重ね。

先述の通り。それはブログのIDとしてだったりするけど、正直、はてなブックマークIDとして、認識が私の中で強い。古参や村民と言われる人々は、私がはてなを利用した頃からずっと見ている。

最近、見ないな…と思っていても、知り合いだったら、IDコールを飛ばしたら、来てくれたり、観測範囲を変えてみたら、かつてはてなダイアリを書かれていて、今は引退されている人も、ブクマで見かけたりしたら、当時を思い出して熱い気持ちになる。

また、はてなブックマークで苛烈なコメントを連発していて(私の中での印象は「恐ろしい恐ろしいの人」って感じかな)、なんなんだこの人は!?と思っていても、本人がブコメに込めているモノは「世直し」という意図をはてなブログで書かれたりすると、その正義が私のそれとピタっとマッチするかどうかは別として、正義の心から発されているなら、根底に一定の敬意を払うようになって、あんまり、突き刺さって来なくなって、逆にしょんぼりしたりした。


ここのIDに対して考えること。イメージ。それらが覆った時に、心の中で悲鳴に近いようなモノが生まれたりする。そういう時は、近づくんじゃなかったな、とか。ひっそりと、ステルスシンフォニーしてれば良かったかな、とも思う。

だがしかし、それらの感情を覚える時に、実生活はグデグデだけど、オレは良いインターネットをしているかな?とも思う。

これから30年。どんどんと知っているIDが実は他界している…ということが増えると思う。以下は、以前、書いていたFC2ブログで記事。

最近、考えるのは、ジャンプのマンガに『最終回』があるように、色々なモノに最終回があるな…ということです。2005年8月頃から始めたこのブログですが、私もいつか死ぬことを考えたら、ブログの『最終回』もあって、最後の『ジャンプ感想』か、もしくは、最終回を告げる記事もあるのだな…と思いました。

ブロガーの死亡後にブログがどうなるのか?ブログ「継承・存続」或はインターネット墓地のような事業をやりたい(前編)。

現実とネットを切り離して考えた方が良いかも知れない。だが、個々のIDにおける愛着や、愛憎等々は、最後には悼む気持ちとなっていくだろうか。個別IDの歴史は、人生においては有限で、でも、現在進行形であるのだと思う。

個としての増田とシステムとしての匿名ダイアリ。

最近、考えていたのは、システムを指す場合も、書いている個人を指す場合でも「増田」という言葉を使っちゃうのは、良くないかな?ということだった。それは、前後の文脈で伝わるハズだけど、個人のつまりで書いていて、システムで理解されると、大きな誤解を与えるかも知れない。自分が書いた文章をそういう視点で見たことはない。

一つ前の記事で書いていた事件。最終的に体制側のジャッジによる着地点があったので、この場合は事変じゃあないのだろう。その後も、お気に入りサーフィンをしていると、一連のことを踏まえた内容が、匿名ダイアリに書かれている。そこには、私には分からないけど、匿名ダイアリの場所から、はてなブロガーなどに対して言及することの「正義」が語られている。それは、匿名ダイアリを使う理由であったり、色々と矜持がありそうだが、匿名、個別IDに関わらず「正義」という部分は、理解という意味で歩み寄る必要があると思う。そう考えると、私が自身への戒めの意味で使っていた『研究』という言葉は、人間同士の共感という意味では、壁を作っていたように思える。


少し、話を変えてみると。匿名ダイアリにおいては、個別のダイアラ。増田を個別で認識できない以上、うっすらとした「個」と、その時代時代のシステムとしての「増田」として認識している。だから、本当は書いている人に変遷があるだろうけど、システムからの印象という意味で「昔の増田は良かった」というような言葉が使われると思う。それは、本来的には「当時の利用者」という話だが、システムから受ける印象としても成り立つ。2つの意味を含有できるという意味で「増田」という言葉は素晴らしい。

匿名の良さというのは、そういう部分であるかも知れない。書き手とイメージによるバイアスがかからない。はてなブログは、利用者の囲い込み機能がしっかりしているから、同じ内容を書いても、生まれる影響力が全然違う。それは、そのブログを定期的にチェックしている人がいる数に還元できると思う。

そういう意味では、常に閲覧者と書き手がいる匿名ダイアリに書き込む正義は、意見が世の中に影響を与えるという意味では、正しいかも知れない。しかし、はてなブックマークスパムという不正行為を行って、意図的に注目エントリにする等の(はてな利用規約的に)悪意のある行動をしてしまうと、自分の意見を訴えたいという行為の正義もかすれてしまう。

そして、それがこの記事を書いている最近のシステムとしての「増田」の印象になってしまう。それも、匿名の「良さ」に含まれるのかも知れないけど、増田内部でも「もう勘弁してくれめんす」と思っていた人はいるのじゃあないだろうか。


完全匿名という矜持は、私は利用したことがないから分からない。ただ、オープン2ちゃんねるのID非表示設定は、匿名ダイアリの雰囲気に近いかも知れない。オープン2ちゃんねるでも、完全ID非表示スレを立てる行為は嫌っている人もいた。だが、自演もやり放題というスレッドは、完全匿名という楽しさもあった。また、日ごとにIDが変わる「名無しさん」と固定ハンドル(コテハン)との、バチバチとしたバトルもあったりした。増田と、はてな個別IDで活動している人との間に行き交う感情というのは、名無しさんと、コテハンとの間の感情に近いかも知れない。

昨日で一つの嵐は去った。不正行為には公式に対処がされることが分かった(当然だけど)。その実例も、個別認識ができない以上、人として、システムとしての『増田』の現在進行形の歴史なんだと思う。事件としては、記録に残ったけど、その時の『個』としての増田は、やがて、全体の中に溶け込んでいくのだろう。それも、匿名の良さかも知れない。

今まで、自分の弱い気持ちが、匿名ダイアリというシステムを攻撃に転ずる可能性があるから「使わない」と決めていたのだけど、使ってもいいかな?と思った。オープン2ちゃんねるで書いていた時のノリ(人格)をそこに輸入してもいいかな?と。

もしも、私が宣言なしに、増田に入っていった時に、「こいつyarukimedesuじゃないの?」と思われたら…それも、匿名の良さかも知れない。使おうかな?と思って、ログインをしてみたら、なんだか、懐かしい感じの編集画面だった。ただ、まだ、何も書いていない。


…本当かな?