大学院卒ニート、しやわせになりたい。

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【小説】Hatenaで「死ね」って言われたので父親と兄を殺して自殺します。

この小説はフィクションです。

先日から、実家、自分の父親や兄に関わる日記のような憤りを書いていた。兄とのメールのやりとりの中で、私が兄のことを思って、自分の正義心を折ったことを「自己責任」と一蹴されたことで、「父親を殺すかも?」と思っていたのが、「オレが死んだら全部解決するのかな?」と、気持ちが変化し、そして悔しくて泣いた。

父親は、兄に暴力をふるっていた。私は暴力はふるわれてない。そのせいか、思えばおかしなことだが、母親などから「殴られて育たなかったのは幸い」というようなことを言われていた。しかし、自分に暴力が及ばなかったが、5歳年上の兄が鉄製のセロハンテープ台で殴打されている様子などは、脳裏に焼き付いている。

父親とは、怒りに任せて鉄で子供を殴って良い存在であり、父親を怒らせることは、暴力による報復を受けることになる。今でも、私は父親と面と向かって話せないのは、その時の暴力のイメージが大きい。私が、無職で、実家を頼って生きていることは、また、別の暴力によるものである。

ただ、私が会社員時代においても、暴力への絶対的な恐怖はあったのだと思う。父親は、手話通訳もやるが、定時制高校に通っていた頃は、柔道もやっていたようなので、効率的に暴力を執行する技術を持っているのだろう。今でも、殴り合いになったら勝てるかどうか分からないし、そのために刃物を準備などをして、刺し殺す可能性もあるかもしれない。

先日、兄とのメールのやりとりの中で、兄が暴力を受けている様子を見たせいで、恐怖が焼き付いているという内容を伝えたら、兄は父親から暴力を受けたことで、強くなることができたらしい。不謹慎かもしれないが「そんな発想はなかった」と思った。

暴力に屈しないということは、暴力を受けたことを乗り切り、そして、それが強さに繋がったと肯定することなのだろうか。私なら、圧倒的強者から受けた暴力は、その対象を生涯憎み続けると思う。思えば、私は兄からも暴力や、暴力に類することを受けていたのだが、それを乗り越えられてない。自分が小学生ぐらいの時に、5歳年上の兄に、力で勝てるはずがなかった。

暴力とは、人の人格を歪めるものだと思っていた。しかし、暴力を乗り越え、それを強さに変えた。さらに、父親は兄に暴力をふるっていたことに負い目があるらしく、社会人になってからは、福祉関係の事業を立ち上げる時は、その公共性の高さもあり、金銭的にも非常に協力的であった。

私としては実の弟を風呂場で溺死に追い込むことに愉悦を感じてそうだった兄、相撲で言うところの可愛がりとでも言おうか?そんな様子も頭に残っている関係で、福祉関係の仕事に関わっているのは、いつか、利用者を殺すのじゃないか?という一抹の不安はあったのだが、きっと、暴力を乗り越え、強さに変えた兄は、実の5歳下の弟にふるった暴力や、暴力のようなものをふるったりはしないだろう。

まとめてみると。兄は、父親の暴力により強く生きることができ、そこから発生した父親の負い目により、金銭的な支援を得ることができた。また、当時、20歳以上年下の実子に暴力を奮っていたのは、父親なりに憤りがあったのだろう。子供を殴ることで、その憤りは発散できたであろうか。だとしたら、Win-Winな関係と言えるかもしれんね。まあ、私は一つも勝ってないわけだが。

暴力というのは、人の人生を狂わせるものだと思っていた。殴った父親と、殴られた兄は、今はお互いを認め合う関係になっているらしい。暴力によるハッピーエンド。めでたしめでたし。


このようなことを考えた時に。ハッピーエンドに関わっていない私は不要だと思った。死んだ方がいいのじゃないか。正直、父親のことを憎んでいた。父親には、生まれる前に死んでしまった姉がいたそうだ。姉が死んでしまったから、父親が生まれたそうだ。父親への憎しみの末に行き着いた言葉は、「死ぬべきは生まれなかった姉ではなく、お前だったのじゃないか?」ということだった。今思えば、自分にはひどい言葉を考えつく才能があるのじゃないか?と思えるほどに、ひどい言葉だと思う。

ここ最近の台風の時の事件に関して、父親の息子として、兄の弟として生まれて不幸だと思っていたが、死ぬべきは自分なのじゃないか?と思えた。

もしも、自殺するのであれば、私の恨み脳髄である父親と兄を殺害したいと思った。結果として克服された暴力ではあるが、克服するまでの間に、兄の憤りが私に対して、暴力や暴力のようなものとして発散されていた可能性はゼロじゃあないだろう。

だけど、今の心境を正確に書き表してみるなら、行き掛けの駄賃で人間のクズを二匹殺すよりは、自分の気高さを信じたままで、死んだ方がいいのじゃないか?そんなふうに思える。

最後に書いておくならば、親からの暴力で子供が強くなるなんてことは絶対にない。暴力を受けた子供が、それを乗り切って強くなったとしても、乗り切ったことは否定しなくても、そんなものは本来不要なものである。また、強さを得たと同時に何かを失っているはずだ。最悪の場合は、暴力を肯定するかもしれない。自分でかけた洗脳のようなものだ。

暴力は、多くの人生を歪ませる。手話通訳をやったり、聴覚障害者に優しくても、子供に暴力をふるった罪は消えない。福祉事業を行っても、弟に暴力や、暴力のようなものを行った罪は消えない。

そして、私の罪は、現在進行系で横たわったままである。父親と兄を殺し、その後に速やかに死ぬ。母親と、兄の妻には、本当に申し訳ないと思う。

この小説を書こうと思ったキッカケのブコメ。

知らんがな。 - yarukimedesuのコメント / はてなブックマーク

id:yarukimedesu じゃあ黙ってろよゴミクズ。いちいちブコメすんなゴミクズ。つーか、死ね

2017/11/30 01:32

この作品はフィクションです。

私は他人をぶっ殺してでも、自分は自殺しないと信念を固めているので、この作品は本当にフィクションなので、知り合いの人は心配しないように。本当に心配なら、ブクマしてくれていいんよ。