大学院卒ニート、しやわせになりたい。

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暴力と殺人の才能。

これまで何度か書いてきたことだけど、私の原風景の一つに、建て替える前の家で、ガラス戸の向こうで父親が鉄製のセロハンテープ台を振り上げて、兄を打ち付けていた。

台所に幼い私はいて、目の前で行われる残虐非道に泣き叫んでいた。その兄は、父親の暴力があったから強くなれたと、過去を肯定して、元気にNPOとかやっている。

私は、兄から暴力を受けていた。強く覚えているのは、風呂で水攻めのような、湯船に顔を押し付けられたことや、友達と一緒に「あほ、ばか」と悪口を言ったら、丸めた新聞紙でボコボコに殴られた記憶がある。

昔は、兄も暴力を受けていたのだから、私が、その連鎖に巻き込まれても、兄も苦しんでいたのだから、と同情する気持ちがあったのだが、私への連鎖を忘れて、勝手に強くなったというなら、「死ね」と思う。

後述するが、私は殺人の才能ができないので「殺す」のは無理だけど、「頭のおかしい利用者に刺殺されろ」、「お前みたいなヤツは私怨を持たれているだろうから、俺以外の誰かに殺されろ」、「適当な理由で人生に絶望して自殺しろ」とか、頭の中でよく考える。

なるほど、私は悪口、罵詈雑言の才能はあるかもしれないが、暴力や、殺人の才能がてんでないことが分かる。なぜなら、怖いからだ。

殺人はもとより、暴力も含めて、そのような力を行使して、人生が幸せになることはない。今書いているような、悪口だって、人生を幸せになることはないが、ただ、自分の心を救いたい、いや、様々なことを考えた思考の結果として書いている。

だから、これは小説のような感じで読んで欲しい。もしも、この文章がバズった結果、兄の仕事に悪影響が出るようなことがあれば、その報いは受けようと思う。

才能。

前置きが長くなったが、自分よりも20歳も年下の子ども、5歳も年下の弟に暴力を行使できるのは、ある種の才能だと思った。

本当は、人として大事なモノが欠落しているとも言える。だが、同時に彼らは、積極的に障害者に関わって行こうとする人間である。

言葉は悪いが、あえて悪く書くが、私はヨダレをたらしたり、「あーあー」言っている人に積極的に関わっていくような心の強さはない。悪い言葉を使ったのは、内心は思っていても、良い人ぶっていて、普段は言葉にできないことを、言葉にした感じだ。

私は、自分の知っている範囲で、障害者に関わることを仕事にする人や、サークル活動として、そのようなことをする人を知らない。

障害者と関わることと、年齢的、肉体的に圧倒している相手を暴力で打ち伏せる内面は、両立するのである。もう20年から前のことだ。彼らも精神的に変化しているかもしれない。

しかし、絶対的なラインとして、「勝てる相手をボコボコにした」という最初の一手を実行できるかどうかの差はあると思う。

それは、先天的なモノかもしれないし、それこそ才能なのかもしれない。私は自分の覚えている範囲で、圧倒的に勝てる相手に暴力をしたことはない。小学校、中学校時代のことを思い出しても、年齢が同じで、体力的に優劣のない相手とケンカした覚えしかない。

小学校の高学年でいじめにあっていて、囲まれた時は、一番、細いヤツを狙って首をシメたことはあるように思える。このあたりは、記憶があやふやだ。


話が横道にそれたけど、絶対に勝てる相手を暴力で打ちのめす。そのトリガーが、怒りなどの感情かもしれないが、怒りの結果の行動をためらうことなく、行使できるというのは才能だと思う。

嗅覚。

さらにスゴいと思うのは、20歳年下子ども、5歳年下の弟へ暴力を行っても、彼らは社会的な制裁を一切受けてないという部分である。

そういう時代じゃなかったというのもある。だけど、家庭内の暴力が警察沙汰になるのは、きっと、家族は望まない。だから、家庭内の暴力は外に出ない。

家の中で行う暴力は、自分の社会的制裁につながらないと、本能で分かっているのであろう。あるいは、それは、ただ、運が良いだけかもしれない。

兄なんて、障害者を相手をするNPOやってるもんだから、私が「新聞紙丸めてボコボコに殴られましたし、風呂場で溺死しかけました♪」とか言ったなら、仕事に影響が出るのじゃないか?と思う。

だが、そんなことで兄の名誉を毀損しても、私の人生がより暗くなるだけで、全くプラスになることもないし、ダメな弟が逆恨みの犯行ってことになってしまうだろう。だから、私は兄を人生の絶望のどん底に叩き落とすことはできない。また、私は暴力の才能も、殺人の才能もないから、暴力による報復も不可能である。

相手の人生、家族の人生の初期に、暴力により暗い陰を落として、その後の人生に優位に立ち続ける。それは、もう才能を飛び越えて、サイコパスなんじゃないかと思う。

一つ誤算があるならば、息子、弟が20年以上経過しても恨み続けていることだろうか。そこまで計算はできてたら、暴力はできないだろう。

暴力で人生が明るくなることはない。

息子への暴力。弟への暴力。私からしたら、父親と兄は、暴力の暗い時期を乗り越えて、ウィンウィンな関係を作っているような感じがあるが、私は、絶対に許せない。

また、私が暴力を連鎖しなかったのは、私の下に弟や、妹がいなかったからだろう。もしも、いたら暴力にとどまらず、性犯罪していた可能性もあると思う。私も、父親や兄と同じ血が流れているから、兄からの暴力に耐えきれず、さらに連鎖させていた可能性はある。

だから、私が末っ子だったのは、次なる不幸が生まれなかったという意味では、幸いだったのかもしれない。

願わくば。

私が、父親や兄を殺すことは才能から考えても無理だろう。だから、それぞれに人生に絶望して自殺するとか、私以外の私怨の相手に殺害されるのがベストかもしれない。

一番ベストなのは、ウィンウィンと思われた父親と兄の関係が仮初めであり、兄が父親を殺害する。殺し合いになり、ふたりとも死ぬ。そういうのがベストかもしれない。


なんてことを、悶々と考えていた。私は、暴力の才能はないけど、憎しみを増幅させて、罵詈雑言を書く才能はあるのじゃないかと思う。この文章は、推敲してないけど、練っていけば、よりスリリングな文章になるかもしれない。

めちゃくちゃなことを書いているが、こういうことを書いていると、心が晴れる。殺人は、自分の人生を好転させることはない。

そんなことは、ほとんどの人が分かっているのに、人を殺しちゃう瞬間というのが来るとしたら、どのように来るのだろうか。

私が、今にも人を殺しそうな雰囲気があるかもしれないが、このような文章を公開する自由が失われた時に、本当にヤバい状態なんだと思う。