人の声は愛おしく。
年末にやっていた芝居で、結局は採用されなかったけど、革命や自由、社会に関してメンバーで雑談したのを録音して、シーン転換時の効果、演出として流してみようというアイデアがあった。それは、芝居のテーマに関することだったのだけど、結局はボツになった。
採用されなかった理由に関して、メンバーの某人が「人の声というのは、結局は愛おしい」と言っていた。ぶっちゃけ、「愛」なんて言葉は出ない稽古場と芝居の内容だから、むしろ、何かが心配になった。
愛おしい声を、演出的にブツリと切断するようにカットするのは、本来もとめる演出効果とは違う意味が発生するという意味で、ボツとなった。ボツとなったことなのだけど、幕間に話した一連の会話は、今でも時々思い出す。
ブログの文章も愛おしいはずだ。
こんなエントリを書いていた。ブログの更新数と、それをブクマする人々と、文章の面白さ、面白くなさってのが問題で、結局は、もともとの発端となった、あなさんや、ハゲさんの主張するところは、「面白くなさ」なんじゃないか?と思う。
そして、私の書いたエントリの反応で、印象的だったのが以下のコメントです。
ブログの更新数はブロガーの自由だし、スパムか判定するのは検索エンジンや運営だし、ファンが何を好むかは個人の自由じゃない?(動画あります) - 団劇スデメキルヤ伝外超ミソジニー自家炎上の散るろぐおじさんとか、地方ヘイトgudachanと違って、ポジ熊さんの記事のクオリティが低いのは本人の力が及ばないだけだから、それを責めてはいけない
2016/02/05 12:00
冒頭で書いたことを思い出し、連関して、ブログの面白さというのを考えた時に、人の声が愛おしいと同じように、インターネット上に発せられる言葉、文字、声というのも、愛おしいのじゃないか?と思えた。
面白さを感じる部分は、個人の能力だし、普遍的に面白いものもあるのかもしれない。しかし、面白くないと思う一方で、もっと原初的な「愛おしさ」ものも、ブログにはあるのかもしれない。
何かを激しく否定するものに対しても、愛おしさを感じることができた時、今よりも上位の存在になれるのかもしれないが、それは難しい。ただ、手斧を投げるのじゃあなくて、柔らかく、温いお手紙を紙飛行機にして飛ばすくらいのことは、初めても良いのかもしれない。お金持ちになりたいものです。