大学院卒ニート、しやわせになりたい。

働かないで、アフィリエイトとか、ユーチューバーで幸せになりたいです。

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愛している、男も女も大人も子どももお爺さんもお婆さんも全てに理解と共感し受け入れるライフハック。

先日は、知り合いの家飲みに参加。京都は洪水警報が出るくらいに大雨だった。その結果、会えなかった人がいたり、なんだかんだあった。ふと、自分の手をじいっと見ていた。思えば、私は自己愛の強い男で、夜中にうどんを食べて寝ることも珍しくない。自己愛という意味では、私は左利きだけど、その右手をじいっと眺めて、よくよく考えると、アラサーのおっさんがおっさんを愛しているのだな…と気付く。

残念ながら私は異性愛者なのだが、自己愛という意味では、同性愛とはいかなくても、異性愛の範疇から離れるのじゃないか?と思った。電車は安全のために徐行運転をしていた。市内ではバス移動。頭がしこたま疲れていたこともあったので、すこし、実験というか、見知らぬ老若男女をどのように愛することができるのか?想像してみることにした。


私のブコメ等々をよく見る人は、察することができるかも知れないが、完璧に虹櫓離の傾向はあるのだが、これは自覚的意識において、これまでの人生において、恋愛的、結婚的観点から好きになる異性ってのは、自分と同い年か近い年齢だった。昔は「同い年の人と結婚したい」と強く思っていたけど、今は、ある程度の年下、年上も、その範囲に広がっている。これは、ストライクゾーンとかだけじゃあなくて、価値観の共有の意味である。

だから、アラサーの私はアラサーの女性に惹かれることが多い。オープン2ちゃんねるなどで「女は30過ぎたらババア」とか言っているのを読むと、ああ、この人は損をしているな…と思う。

ちなみに、先日以下のような文章を読んでいた。以下は、引用です。

ボク自身はアラサー女性に興味がありません(^^;
だって、アラサーよりもアラフォーの方が好きだもん(*´ェ`*)
ボツにしたエントリー(記事)ってありますか?ボツにした理由をまとめてみた - 鈴木です。


残念ながら、私はアラフォーには達してないので、この気持ちには100%というレベルでは共感はできない。しかし、共感できる部分の延長線上、今現在の感情の延長を想像してみると、例えば、これはひとつの理想なのかも知れないが、例えば「おこわ」や「お赤飯」とかも達者に炊いて、お稲荷さんとかも美味しいのを作ってくれるかも知れないし、仮に初めてだったとしても、餡子を皮にテキパキと包んでくれるかも知れない。そういう円熟した技術と知性を感じるかも知れないし、「痛い!やめてくれ!」っていうぐらいに、引っ張るような小悪魔的一面を持っているかも知れない。

これは、妄想か…。


バスの中で試行したライフハックは、基本的に異性を愛することは容易だった。それは、今までに色んなカルチャーなどに触れてきたし、はてなにおいては、id:netcraft氏の怪物的人物像などに触れていると、人間の可能性という意味で、いろいろな広がりを見せる。時間帯の関係か、バスの中には、児童や生徒がいなかったのは、社会的に考えて良かったと思う。

ただ、同性というのは、私が異性愛者であるために、想像は難しい。だが、やはり、おのが手をじいっと見てみると、彼らも自己愛を持っているのじゃないか?とかんがえると、その部分の共感を得ることができれば、愛しあうことは可能なのじゃないか?と思えた。

例えば、モンゴルにはモンゴル相撲という競技があるらしい。学生時代の後輩で、智弁和歌山出身の京大生がいたのだけど(私が所属した学生劇団は他大学からの部員もいました。私は京大出身じゃないのであしからず)、名物老先生は、何かと、生徒に声をかけて、相撲をとっていたらしい。それも、愛の形なのかも知れない。

バスの中には、男の子、いわゆる子どもはいなかったのだが、相手の理解力、社会的立場を考えると、自己愛という共通理解においても、慎重な線引は必要なのじゃないか?と思えるが(そんなこと考えなくても良いかも知れないが)、異性愛者である私が、「愛する」という観点で、一番遠い存在のことを考えてみた時に、愛の一つの形は、理解と共感なんじゃないか?と思えた。


いわんや。今回のバスの中での試行、試行の連続は、あくまで目の前にいる相手なのだけど、ネット上での相手。仮に私と私のブログに攻撃的言及を続けてくる相手だっとしても、自己愛や、もしくはその他の理解と共感を持てば、その相手すら「愛せるのじゃないか」と思った。

ただ、自分の中に憎しみの感情がいっぱいになって、「親と兄弟を全員殺して、お前も死ね」などという過激な言葉が思い浮かぶ心理状態も、自己の多様性としては、好きだったりもする。

だけど、今回の大雨と洪水と、五山の送り火。じいっと見た手。自己愛。試行と試行。そこで得た「全てを愛する」というライフハックも、自分の中に芽生えたモノとして、育んでみても良いかも知れない。

そう、脇毛も、本当はふわふわしていて、愛すべきモノなのかも知れない。偉大なる先輩諸氏は、そんな領域は飛び越えているかも知れない。