大学院卒ニート、しやわせになりたい。

働かないで、アフィリエイトとか、ユーチューバーで幸せになりたいです。

子どもが嫌いな女性もいるし、子どもが好きすぎる男性(変態)もいる。

はじめに(読み飛ばし可)。

「女性が輝く社会」と言った時に、その女性は何をして、どう輝くのか?仕事をするとしたら何か?「一億総活躍社会」と言った時に、何で、どう活躍するのか?仕事をするとしたら何か?

それぞれイメージされるモノはあるのだと思うのだけど、職業に貴賤はないと言いながら、鉄腕ダッシュの番組などでよく見る、貝の剥きが上手な女性とか、かつお節を作る時に、小骨とかを抜く仕事ってのは、どうなんだろう?これらの言葉を発している与党と、与党を支持している人は、どのようなイメージで「輝く」とか言っているんだろう。

もちろん、こういう話題は、あまり良くないのだけど、「輝く」、「活躍」と言った時に、具体的なイメージ。もしくは、みんながイメージする平均とする理想像があるとするならば、そこから外れることは、どうなるんだろう。

以下から書くことを考えていた時に、そんなことを考えていた。

子どもが嫌いな女性もいる。

少し前のエントリだけど、以下の記事を読んでいた。

kuroihikari.hatenablog.com

私は、氏とは性別も違うし、すべての内容に共感することは難しいし、全てに共感したとしたら、それはウソになるだろう。元々の話題が赤ちゃんを殴った人間に関することだったりする。一つ言えるのは、「体罰」とか「いじめ」などの言葉があふれている現代だけど、どんな関係性にあっても「暴力」というのは、世の中のルール的には罰せられることとなる。

しかし、世の中には感情が高ぶれば、子どもだって殴る人間が存在していることは、忘れてはならないと思う。そう再認識させられたのは、以下の文章を読んだから。以下は、先ほどのエントリの引用です。

子供嫌いな人の存在を都合よく見えないことにしてしまって本当に大丈夫なのですか。透明人間じゃないですよ。心のある人間がそこにいて常時不快な状況を受け入れ続けることしか許されていません。子供のことは誰もが好きで当たり前という押し付けがましい空気がどこの会社に行っても当たり前のように充満している。


これは、とても大事なことだと思う。Facebookとかは、こんな空気に満ち溢れていると思う。Facebookに子どもの写真をアップしている親は、子どもの写真は(性的な意味も含めて)悪用する人間はいないと思っている節がある。

あるいは、社会的に存在していても、自分の知り合いには【いない】という核心があるのかもしれない。だが、私は慢心だと思う。もしくは、子どもの写真を見たくないならFacebookするなって空気はあるのかもしれない。

ぶっちゃけ、お腹の中の音波写真とかタイムラインに上がってきたら、「きしょいもん流すな」とか痛烈なDisを浴びせたくなる時もあるのだけど、場を見だしてもいけないからやらない。


話がそれたけど、「子ども嫌いな人がいない」という個々の考えや、社会的な空気は、子どもに限らずいろいろなモノにあると思う。今は理解は広がってきているが、同性愛や、小児性愛なども「社会的にあってはならない」という意識は、昔は強かったのじゃないだろうか。

子どもが好きすぎる男(変態)もいる。

「うさぎドロップ」というマンガがある。その結末が話題になっていた時、「血は繋がってなくても親子の間では恋愛感情は生まれない」という女性側からの意見が支配的だった。ここで語るのは、恋愛よりも、もっと原始的なことかもしれない。

東京都の非実在青少年の話題も懐かしいけど、それがフィクションであっても、フィクションであるからこそ、そういうものを認めないという意識は本気で持っている人は、かなりの数いるのじゃないか?と思う。しかし、性犯罪の多くは家庭でも起きているということは、忘れてはいけない。

それらのことは(マンガというフィクションは別として)、やはり、法律や社会のルール的に罰せられることが多い。しかし、世の中にそういう感情があるということは、否定できないように思える。いや、否定することで、「あってはならない」という空気を作り出すことで、望ましくない歪みが生まれているのじゃないか?とも思える。

どこかにボーダーラインがあるはずなので、難しい問題ではあるけど、「そうであることが許される」というのは、心の救いに繋がるところもあると思う。


少し異なる話題だけど、クリス松村さんは、青年時代に自分のことで、深く悩まれたそうです。そんな時に、電車の中でとある雑誌と出会い、自分と同じような人が世の中にはたくさんいるという事実を知った時に、「救われた」と語られていた。

いろいろな感情が「ある」ことは肯定したい。

話が飛び飛びになってしまったけど、「子どもが嫌いな人」がいる事実は肯定したい。「子どもの嫌いな人はいない。嫌いな人の方が間違っている」というのが、もしも前提になったとしたら、きっと、それは増長なんだと思う。

バランス感覚は難しいが、自分が子どもの話をした時に、それが嫌な人もいるというのは前提にして、お互いが気遣える社会の方が優しい社会なのかもしれない。もちろん、自身の感情の発露を暴力として、しかも、抵抗できない相手に向けるというのは、肯定できない。だが、「そういう人間もいる」と思えば、警戒心とかが変わってくるかもしれない。

id:kuroihikariさんの元エントリには批判も多かったみたいだけど、「そう思う自分もいる」というのは、ブログの最初のカタチの一つなのじゃないか?と思える。この場合は、慣れ合いがすべてじゃあないし、全部は肯定できない場合もあるのだけど、いろいろな感情があることは、肯定したい。

おわりに。

こう考えると、今まで色んなことを否定していたように思えるけど、考えなさないといけないことは、沢山あったと思う。次に出会う時は、また違う考え方ができるのを信じて。