私が一番書いているのは、ジャンプの感想です。週に20記事以上書いています。その中で気をつけているのは「面白い」と書くことで、作品的なツッコミを入れても、その分、面白い!を探します。
それは、どの作品においても、自分以上に好きな人がいるからです。
ちょっと考えたことなど。
書評(批評)という名前のヘイトスピーチ。
しかしながら、ジャンプ感想も『2ちゃんねるまとめブログ』とかの題材になりがちですが、「クソ漫画」とか「切った」とか、そんな表現を見る昨今です。
私は、作品をどう思うか?というのは「50%は読み手の責任」だと思っているので、面白くないのは、読み手の感受性であり、読まなくなったのは、本人の読解力の問題だと思っています。
その考えの根底は、制作側へのリスペクトです。私がこれまでに描いたマンガ原稿は20ページくらいですが、その中でも、消しゴムをかけた夜、腕が火照って眠れないとか、そういう体験を、毎週、毎月されている人々は、きっと読者の私には到達できない世界にいるのだと思います。
マンガの良さは気軽さで、だからこそ「つまらん!」と切り捨てることもできるのですが、相手の立場に立って考えるのは、人間の基本的回路だと思うのです。
或いは憎しみの回路の増幅。
私は、マンガのことは肯定的に文章に書きますが、実生活とか、他のことがらに関しては、かなりヒドク書く時があります。その時に考えるのは、頭の中の憎しみ回路は、使えば使うほど、得意になり、どんどんと、その回路がグルグルと機能するのじゃないか?と思えます。
そして、「面白くない!」を書き連ねる書評は批評となり、それってヘイトスピーチなんじゃないかな?と思いました。勿論、本来の意味からは外れてますが、果たして、「面白くない!」を書きまくることや、「○○の方が面白い!」と書きまくることで、誰が、どのように幸せになるのかな?と思いました。
勿論、「面白くない!」も一つの感想なので、それ自体は、否定しませんが、しかしながら、そのパワーを、もっと別のモノに向けた方が良いような。もしくは、「自分が面白くないと思っているモノ」が肯定されているのが、自分の内面を、どのように削り取るのであろうか?
…まぁ、私も、マンガ以外の話題では腐るほどあったりしますが…。
終わります。
というようなことを以下の記事を読んで考えた次第です。
私よりも、数十倍、炎上的アクセスにタフだと思うのですが、しかし、「病院に行ってきた」という記事を読んでみると、このようなブログ記事とか、そのリアクションへの反応などを繰り返していると、精神的に消耗するのじゃないか?と思ったりします。
もしくは、それが、彼を救っている可能性もある気がするので、なんとも言えませんが。