大学院卒ニート、しやわせになりたい。

働かないで、アフィリエイトとか、ユーチューバーで幸せになりたいです。

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はてなの知らんやつが死んだ。

はてなの知らんやつが死んだ。アカウント的には知ってるし、ユーチューブとかで顔は知っている。会ったことはない。これは、予防線だが、私は、適応障害などの知識はまるでない。

死ぬ以外の方法はなかったのだろうか?ブログも、ユーチューブも、圧倒的に私よりも成功している。年齢も私よりも若い。死を惜しむ声も、はてブとか、ツイッターで読んだ。仮に疑うことのないくらい素晴らしい、人生で最良のことがあっても、ユーチューブが大盛況しても、彼は死んだのだろうか。

彼の文章を読むと、もっとも、冒頭から何が書いてあるのか思考が迷子になり、流し読みでも最後まで読んだことは、ほとんどないのだが、文章や合間に入る加工された画像を見ていると、何がどうあっても、言葉も、想いも、行動も、何があっても、彼の死は不可避だったんじゃないかと思った。全く相応しくない例えだが、解除できないヒットポイント削る系の状態異常がかけられたように、思えた。

それでも、彼は望んでないだろうが、例えばふん縛ったりすれば、死は回避できたのだろうか。その最後が自死であったなら。


今年は、知り合いで年齢の近い人が二人も死んだ。一人は一つ年上の大学の先輩で、もう一人は別の大学に通っていた同い年の男だ。二人とも病気で、ガンだった。部位は違う。その二人もどこかで会ってた可能性あるかな、と今思った。

二人とも、私とは違い結婚していた。最後に話したのは、もう10年以上前かもしれない。年賀状を返してなかったり、余命幾ばくもないと知った後でも、フェイスブックにメッセージを送るのを、躊躇っていた。最期の時間に、私のことを考える、時間を使わすほどの間柄ではないと思ってしまった。だけど、ちょっと後悔している。同い年の男は、フェイスブックの友達数か私の約15倍あり、お葬式も大規模だったと聞くと、生前の影響力は、数字に残るのだな、と思った。

自死と病死を比べるべきではない。私との関係性も全然違うのだが、年の近い二人は、きっと死にたくなかったと思う。ガンが治るなら、絶対にそれを願ったんじゃないかと思う。彼らには家族がいたし、生前の、思い出の中の二人は、そんな人たちだった。


はてなの知らんやつが死んだ。20万字を越えるという遺書エントリを遺した。こんな壮絶な文字数と画像の遺書エントリは、今後見ないと思う。私が似た試みをしても、2ブクマくらいだろう。セルクマはできない。

年齢の近い知り合いが死んで、連絡とってなかった人と少し連絡したりして、私がガンなどで余命宣告されたらどうするだろうか?と考えた。ジョジョ9部読みたいな。物語を書くかもしれないが、具体的に死ぬまでにやりたいと思ったのは、ムカつく奴をぶっ殺すだった。私に、何か事件が起きるとすれば、自死よりも殺人かもしれない。

同い年の男は、ツイッターやっていた。永眠を知ってから、確認すると最後のツイートにリプライがぶら下がってた。はてなの知らんやつのツイッターは、遺族の方がツイートされ、そこにリプライがぶら下がっていた。

死を、ネットコンテンツとして消費しているようで嫌だな、と思ったが、ネット時代現在の正しい弔いなのかもしれない。

本当は、はてなの知らないやつよりも、同じ時間を過ごした二人のほうが、私の思い出に占める割合は大きいはずだったのだが、はてなブックマークで知った死が、最近考えていたことの呼び水となった。


適応障害とか、鬱とか、心の病気とか、詳しくない。「死なないでほしい」という言葉すら、凶器となりうるのかもしれない。ただ、自死とは違うところで、生きたくても病気に命を奪われた人もいた。死後に生前の影響力などは、数字として残る、そんなことを考えた。自死した人にむけて、本当に相応しい言葉は、まだ私には、分からない。

遺書。みんなさようなら。とある発達障害者の終末記録。 - ピピピピピの爽やかな日記帳

死んでほしくなかったなあ。ブログも、You Tubeも、俺よか全然流行ってそうだったのに。そういうことじゃないんだろうけど。

2022/12/22 22:26
b.hatena.ne.jp