知り合いの演劇を手伝ってきた。
京都市内某所で行われた某企画を手伝ってきた。具体的には、音響オペレーションとか、会場設営や撤退など。音響オペは全然初心者なのだけど、いちおう、できた。その時に感じたことを書いてみる。
脚本を読むと完成形が見えて、そういうのはだいたい知っている。
企画が終わり、撤収作業も終わった後に、軽く打ち上げみたいなのがあったのだけど、「どうでした?」と聞かれて、酒飲んでたのもあるけど、わりとマジレスしてしまった。今思えば、「いやー、楽しかったです。わはは」とお茶を濁すのがベストだったのじゃないかと思う。
コロナの関係で、演劇もやってないけど、なんだかんだで、学生とかアマチュアの演劇を見ていて、だいたいどんな仕上がりになるか分かる。脚本を読めば、だいたい完成形が見える。
だから、だいたいのことに新鮮味がなくて、「演劇として成立してるな」とかは思うけど、笑ったりはしない。なんか、奇跡的な噛み方をした時とか、そういう時に笑う。
で、思ったのは、演劇的に成立させることと、ネタが面白いってのは、必ずしもイコールじゃないんだな、と。当たり前のことなんだけど、そういうことを再確認をした。
新しいことを入れないと、全部・古く見える。思える。
最近の学生演劇とか見てないけど、やっぱ、「全集中!○○の呼吸!」とかやってんだろうか。別に、鬼滅の刃ネタをやれば新しくなるとは思わないのだけど、時事ネタなどがなかったり、あるいは、新しい試みがなかったら、全て古くみえるのじゃないかな、と。
私が関わった企画は、新規に書き下ろされた脚本だったのだけど、だいたいのことが「知ってる」わけなので、やはり、新しくは思えない。もちろん、新しいことが全てだとは思わないけど、レトロなことをやっていると覚悟を決めて、思ってやれば、出来上がりは違うだろう。
ぺこぱとか第七世代。
おっさんと話すと、「ぺこぱとかイグジットとか、何がおもろいか分からん」という話になりがちだ。私は、ロンハーやアメトーークを見ている限り、第七世代も面白いと思う。最近の若い芸人のやる笑いが、新しく、それらに迎合することが、演劇を新しく、若くすることとは限らないと思うけど、第七世代を支持している若者が、それらを否定している人が作った創作を見て、楽しく思えるのだろうか?とか、思った。
ただ、私の母親とかにも、がっつりと「面白い」と言わしめたミルクボーイは、すごいと思う。彼らがやっている笑いは、手法も含めて、決して新しいことじゃないと思う。「発見されてなかった」という事実はあるにしても、年寄にも受けるってのは、新しい部分と、そうじゃない部分が混在してるんだと思う。
演劇というコスパの悪さ。
それ言ったら終わりだと思うし、動画にはないリアル感、ライブ感はあるわけだけど、最近の人気ユーチューバーが「今夜は寿司です!」とかつって、生配信をすれば1000人とか見に来ることを考えると、そもそもジャンルが違うわけだけど、コスパ悪いことやってんなーと思った。
演劇を否定して、動画を肯定するようなダサいことをしたいわけじゃないのだけど、演劇をやる一方で、我々は、フリートークを鍛えるべきだったのじゃないか?と、ここ数年思っていた。
脚本とかを覚えて、練習して、用意したものでパフォーマンスするのも悪くないのだけど、普通に話していてそれが面白いってのが最強なんじゃないかと思う。私のユーチューバー動画が、ほぼ一発どりの無編集なのは、いちおう、そのあたりを意識している。
まあ、練習も編集もしてないから、クオリティ高まらないってのは、あるのだけど。
もしも、自分が演劇を企画するのなら、どんなことをするのだろうか。
今は、コロナだから人を集める企画ってのが、そもそも忌避されるところはあると思うのだけど、「こんなのをやりたい」と思うこともあるのだけど、それが新しいとは言えないのかもしれない。
長いことやっているから、知ってることも多いし、演劇で何を目指すかってのも、折り合いがついている。それは、諦観とも言えるかもしれない。なんか、いきいき活動センターという場所自体に、そういう諦観が染み付いているような気さえしたんだ。
こんなことを文章にしているのも、もう古いかもしれない。