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メンヘラという言葉(ラベル)に対する違和感。

結論を最初に書くと、『メンヘラ』という言葉が何かを救っているのか?もしも、救ってないのだとしたら使わない方がよいのじゃないだろうか。

もしくは、二次元や創作物においてのみ使う。

メンヘラという言葉(ラベル)に対する違和感。

が、ここ数日ずっとある。その根底にあるのは、社会学におけるラベリング理論だと思う。以下は、インターネットで調べたことの引用です。

社会学者H・S・ベッカーが構築した理論で、しばしば逸脱理論として適用される。ある人物の特性は、その人物の行為ゆえというよりも、周囲から貼られる特定のレッテルによって決められる。

ラベリング理論 とは - コトバンク

このラベルの中で近年で代表的なのは「ニート」だと思う。もちろん、昔は「プータロー」言っていたのが、置き換わっただけかも知れない。だけど、ちょっと学術的に聞こえる言葉は、働かない、学ばない若者を一括りに表現できて、便利な一面もあると思う。

だけど、同時に就労、修学してないから何者か分からない自分という状態を「ニート」と置き換えることで、何かに所属している(?)安心感と自分の立ち位置を確認できる安心感も与えているのでは?と、数年前に考えていた。その安心が、前向きに効用するかは分からない。ただ、分かりにくいことを分かりやすく、語呂よく表現することは、勝手な意味の拡大や、勘違いも生まれると思う(状態、現象を指す『老害』が人に使われたり)。


先述したラベリング理論の引用部の続きは、以下のようにある。

ひとたびレッテルが貼られると(ラベリング)、その人物はそのラベリングのもとにアイデンティティと行動パターンを形成するようになる、という理論。

これは、「あの人はメンヘラだ」と周囲からレッテルを貼られた場合だけど、先述した「なにかよく分からない自分」をラベルをつける、属する、属性付けをするという状態が生まれているのじゃないか、と危惧する。一つの流れとして…。

  1. 精神的にしんどい。
  2. 自傷行為。

という流れがあったとして、これが…。

  1. 精神的にしんどい。
  2. 自分はメンヘラじゃないか。
  3. メンヘラは自傷行為などをする。
  4. 自傷行為。

という思考の流れになってないか?という危惧だと思う。最初と最後は同じだけど、「メンヘラ」という二次元的な属性がある(内面のコスプレというか)言葉に自分を置くことで、行動の選択が減ったり、思考が単純化したりするのじゃないか…という危惧がある。


勿論、私は自分の身体を傷付けるほどに精神的に追い込まれたことはないから(壁を殴ったことはある)、『メンヘラ』という言葉が、名乗ることで安心感を与えたり、何かを救っているモノもあるかも知れない…と考えると、安易には否定できないのだけど。


ただ、ツイッターやブログ、周辺の言及記事を読んでいると、人と人が生きていることで生まれる苦しみや、他者が介入できない苦しみを考えた時に、都会でも、田舎でも、とにかく楽しいことを嫌になるまでやって、ご飯もめちゃくちゃ食べて、ゴロゴロしまくって、相撲を取ったり、農業したりしたら、心の苦しみなんて去っていく…ような場所を提供するNPO法人みたいなモノを作れたら楽しいだろうな…と、風呂の中で考えた。

ただ、これで消せない苦しみも世の中に沢山あるのだと思う。人の中に生まれる苦しみが、自分の内なのか、他者や社会からの関係から生まれるのかは、最近、考えている。前者の場合は、どうしたら良いのかさっぱり分からない。