大学院卒ニート、しやわせになりたい。

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殺意とホームセンター。

自分の中の殺意。父親とか、兄に向いた憎しみ、殺意。その溢れる感じに絶望しながら、ガレリア亀岡に自転車を走られていた。自分の中の憎しみを文章にして、そして、ブログに書くことで、少しは憎しみの感情を霧散させることができるのじゃないかと思った。

実際、文字にして、自分の感情を追っていく中で、少しは気持ちの整理はできたのじゃないかと思う。今、思うのは、なぜ、こんなにも肉親への憎しみが消えないのか。これは、私が異常者なのか。人生が行き詰まっているからか。肉親じゃあなくても、近くにいる人間のことは、すべての人間に対して、憎しみを抱くのか。

私のような人間は、誰とも関わらないで、独りで死んだ方がいいのじゃないか?そんな風に思った。


ガレリア亀岡からの帰り、いつもなら、パチンコ屋を覗こうかと思ったけど、そんなつもりにならなかった。そろそろ春の声が聞こえるので、ホームセンターで種とか苗を見てみるのも良いのじゃないかと思った。

その時に、ふと思った。もしも、父親を殺すなら、ホームセンターには、どのように武器になり得るものが売っているだろうか。そんな風に思った時は、ガレリア亀岡で文章を書きなぐったあとで、自分の中の殺意は文章化され、まるで小説のワンシーンを、自分で体験しているような気持ちで、種や苗を見た後にホームセンターを歩き回ってみた。

種や苗を見終えて、武器を探そうと思った時、暗い気持ちになった。種や苗を見ている方が、だいぶ気持ちが安らぐ。

ハンマー各種。

釘を打つトンカチから、金属製の大きいモノ。木槌。いろいろなモノが売っている。トンカチは分かるけど、金属の大きなモノなどは、何を殴るためにあるのだろう。コンクリートを砕くのだろうか。

ドラマ相棒16で、元こども店長が出ていた回で、半グレがヤクザを殺害する獲物として、金属製のハンマーを選んでいたが、撲殺を選ぶ理由はなんなのだろう。今考えてみると、刺殺に比べると、流れ出る血が少ないからかもしれない。

ともあれ、いくら憎んでいたとしても、人間の顔をハンマーで破壊する。どのような感触があるのか分からない。骨が砕ける音などを想像してみて、自分ではハンマーで人を殺すことはできないと思った。

バールのようなものも売っていたが、例えば私がハンマーだけ買ったら、ホームセンターの店員はどう思うのだろうか?武器を購入しようという人間は、年間に数人くらいはいるのじゃないだろうか。

ノコギリなど。

ノコギリなども刃物と同じように使えるかもしれない。死体を分解するなどには使うかもしれないが、ノコギリで人を殺そうとする人は少ないだろう。

よく報道などで、死体遺棄事件で死体を分解して捨てるとか、浴槽で切断したとかあるけど、よくできると思う。目の前に死体が転がっていれば、もう物体として考えるようになるのかもしれないが、私には無理そうだ。想像するだけで恐ろしい。絶対に切断する前に、警察に電話してしまうだろう。

ラチェットなど。

思えば、今わいている殺意は、父親が鉄パイプを組みだして、またしても危険な工事をやりだそうとしている部分にある。鉄パイプを組む時に、接続する器具、クランプを締めたり、緩めたりするのは、クランプで行う。

私も演劇で何度も使ったことがあるが、武器として考えるなら、用途はハンマーと同じというか、棍棒のようにも思える。私が触ったこともないような、大きなモノもあった。

ハンマーと違って、全て鉄製である部分が武器としての信頼感を感じる。しかし、わざわざラチェットを武器に選ぶ人は少ないだろう。手元にあったから殴った…というのが、一番ありえるだろうか…。

毒殺。

ハンマーを見て、ノコギリを眺めている時に思ったけど、一番現実的な殺害方法は毒殺じゃないかと思った。目の前にある塗装スプレーとか、ニスとか、ペンキとか、ホームセンターにある化学物質が、毒物としての作用があるのかは分からないけど、調べたら、様々な方法があるだろう。

問題は、仮に毒物による殺人を実行したとしても、確実に私が疑われるという部分である。なぜなら、このような文章をブログにアップしていることもあるけど、思えば、私が父親と兄を憎んでいることは、本人らも含めて、みんな知っていることだからである。

そのうえで「殺人まではしない」というのが暗黙の了解だと思う。だが、何かが起きたら、私が疑われる。これは、まさに小説のようかもしれないが、もしも、父親や兄が不審死したら、一番に私が疑われると思う。さらに、真犯人が巧妙に証拠を消したら、私が容疑者となり、犯人になるのじゃないだろうか。

人に憎しみを抱くということは、それだけでリスクがあるのかもしれない。

包丁。

美しい。と思った。ホームセンターに並んでいる包丁なので、そんなに高級なモノなわけがなく、薄い鉄板を包丁の形にして尖らせているようにも思えるが、それでも、金属、刃物というものは美しいと思える。

私は、人を刺したことは、もちろんないわけだけど、野菜などを切ったことがある。また、扱いを誤って、指に切り傷を作ったこともある。刃先を軽く押してみて、肉に食い込む感じも覚えている。

実際に、人間の肉体にどのように刺さっていくかは見たことがない。しかし、改めて包丁のフォルムを眺めてみると、それはハンマーを振り上げる力よりも、遥かに少ない力で、肉に刺さっていくのじゃないか?と思った。

人を殺すなら、包丁だな。美しいと思ったのと同時に、そんなふうにも思えた。ハンマーなどに比べると、実行までの精神的ハードルが低いように思えた。

投げたら、どんな風に飛ぶのだろうか。刺さるのだろうか。外れたら、今の障子に刺さり、その裏のガラスも割れたりするのだろうか。以前、何かの事件で、逃げていく旦那に、妻が包丁を投げたら背中に刺さって死亡した、というものがあった。包丁を投げた経験のある人は少ないのじゃないかと思う。

人を殺すことなんてできない。

しかし、包丁で殺したとして、逃げ切ることもできないことが、同時に分かる。親を殺す時は、その後に自分も自殺する時なんじゃないかと思う。そちらの方が現実味はあるように思える。

このような文章を書く時に、繰り返し書いていることだけど、「人を殺して人生が好転することはない」ということだろう。では、なぜ、殺意まで抱く前に父親や兄と話し合わないのか?と言えば、対峙すると、彼らの暴力の記憶が頭の中で作用して、ぶるってしまうからである。

だから、武器を…という発想になるわけだが、人が人を殺す経路ってのは、こんな感じかもしれない。


ともあれ、どれだけ憎んでいても、私は父親や兄を殺害できることはできない。証拠を残さず逃げ切ることはもちろん、仮に他人の犯行だとしても、私が疑われることが濃厚だからである。

だから、それぞれに自殺するとか、お互いに殺し合いになって相打ちになるとか、巧妙ではない他人が殺人をするとかが、ベストなのじゃないかと思う。

どれくらいの人が、肉親の死を願っているかは分からない。全くもって、私が異常者なのかもしれない。そして、実兄や父親が死んだ時の心境は、そうなった時にしか分からないのかもしれない。

お葬式って、みんな泣いているけど、本当は「死んでざまぁwww」とか思ってたりしないのかな。私は、今まで出席したお葬式で、そんな風に思ったことはないが。