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異世界京都銭湯物語~瑞々しい青い豆を口に含んでみてもいいんじゃない?

あの日、舞鶴の沖合に、まるで何かから守るように火山が隆起した。以来、京都府と京都市の観光資源に温泉が加わった。行政としては、隣接する滋賀県もそれを望んだが、西京区よりも西、かつて人工衛星が落下してできた、亀岡・船井大砂漠に大規模な地熱発電所を作ることを計画したが、地域住民との話し合いは継続中である。

私の生活に生まれた大きな変化と言えば、市内(京都府民は「市内」という言葉を「京都市内」という意味で使う)で銭湯に入る時に、それが天然の温泉になったくらいである。もともと、地下水が豊富だったため、造山活動により流れが変わったマグマは、それらを十分に温め、市内は温泉地となった。季節ごとに現れる修学旅行生達も、宿ではしゃいだ後は、温泉に入っているだろう。きっと、日本全国の温泉地を敵にまわしてしまっただろう。観光客は、以前も多かったが、かなり増えた。

「市内」という言葉を自然と使ってしまう私は、年に数回、京都市内で演劇のようなことをしている。やみいち行動。かつて、京都大学に存在した劇団からスピンアウトしてできた企画だが、もうその詳細を知る人はいないだろう。私は京大生じゃあないけど、それに参加している。

幕間の時間というものがある。それは、演劇のステージとステージの間の時間で、通常なら2~4時間くらいだろうか。私の場合は、1日に1ステージだから、それは睡眠時間も含めて20時間くらいになるだろうか。それは、幕間とは言わないかも知れないが、日常とは少し違う時間であり、特別な時間であると思う。私は、役になりきらないで演じるタイプの役者だが、役と役に挟まれた素の自分の時間。演劇関係者で役者をする人しか経験しない不思議な時間。その特殊性を考えている人がどれくらいいるか分からないが、私はその時間を大切にしている。

そういう時間に銭湯に行くことが多い。温泉地に変わっても、建物などはそのままで、古い銭湯の脱衣所は、昔、うる星やつらで読んだストーリーを連想する。異世界感。壁を1枚隔てた隣には裸の異性がいる。それらの日常から切り離された感覚は、年齢とともに鈍くなってきている気もするが、銭湯という空間は、やはり非日常であると思う。


そんなことを考えながら、湯船にポチャンと浸かっていた。隣からは、以前からは考えられない若い声が聞こえる。やはり、温泉地として人気が出たからだろうか。声の感じからすると、若い母親ぐらいの年齢かも知れない。

男湯の様子を見てみると、そこにはまあ、いつもと変わらない風景。昨晩は、何を食べたっけ。お稲荷さんと、豆腐。なんだ、大豆ばっかりだったな……そんな風に思い出す。男湯で見れる景色なんてのはそんなもので、たまに刺青の人を見かけると、心の中で「地回りご苦労様」と思うのだが、地回りという言葉がそれに相応しいかどうか分からない。なんで、この言葉が自分に思い浮かぶかも分からない。そんなことをボンヤリ考える。

ちょっと、湯にあたったのだろうか。もしくは、お腹が空いたのだろうか。目の前に、がんもどきや、お稲荷さん、豆腐などがフワフワと浮かんでいる。幻覚か?と思ったが、やはり、大豆がメインなのが面白い。よく目を凝らすと、豚まんじゅうや、すごく大きい茶わん蒸しのようなモノも動いている。

やれやれ、これは重傷だ。サウナの横にある水風呂に向かう。そこには、ボンレスハムが浮かんでいたが、気にせずじゃぶんと入る。体の熱がすーっと水の中に奪われ、頭の中の熱も抜けてきたように思えた。そして、また、湯船に浸かる。

しばらくすると、また不思議なモノが見えてきた。それは、先ほどまで現れた、豆腐や稲荷などの大豆製品や、干ししいたけなどとは違うものだった。それは、瑞々しい青い豆だった。この銭湯で、このような青い豆を見ることができるとは思わなかった。本当に瑞々しい。それが、さやエンドウなのか、もっと他の豆なのかは分からない。だが、この青い豆も成長し、熟成すると大豆のように硬くなり、やがては豆腐なり、油揚げになるのじゃないか。それは、なんとなく想像できた。

だからこそ、失われしまった記憶というか、豆が青かったということを忘れてしまったいた。やれやれ、全くそんな趣味はなかったのだけど、「口に含んでみてもいいんじゃない?」と、そんな風に思ってしまった。

この熱は、きっと花折断層に含まれている何かしらの成分が、温泉に溶けこんで、自分に作用したに違いない。もう上がって、脱衣所でタバコでも吸おうかと思ったが、もう少しだけ青い豆を眺めるのも良いかも知れない。

そう、もう少しだけ。