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南鳥島ロランC局Vol.1「鉱石」の演劇感想観劇日記。

南鳥島ロランC局Vol.1「鉱石」。

とてもニッチな話題ですが、やみいち行動で一緒に行動している一人が演劇企画をやっていたので、その受付関係の手伝いとか、初日の観劇をやってきておりました。その感想です。

鉱石というからには、ウラン鉱石とかに関係する話だと思っていた。

そんなことはなかった。ただ、なんとなく「放射能」とか、それを連想させる要素はあるだろうと思っていたのだけど、その部分は予想が的中していた。ざっくりと内容を紹介してみると、なんらかの戦争があり、その爆心地(?)の都市(京都?)から避難しないで住み続ける人々の話。京都だと思ったのは、セリフの中に(たしか、たぶん)「鞍馬口」という言葉が出てきたから。

避けることのできない現代的メッセージ。

脚本演出した人が会って話せる間柄だから「どうなんですか?」と聞けるし、「違うで」って答えも返ってくる可能性はあるのだけど、そういうのは、別にどうでもよい。なんらかの爆弾で汚染された地域に住み続ける人々。避難地区の指定の解除もされていない。アスファルトの上などは危険とされているけど、住んでいても健康上の問題は発生しない。

それは、放射能とは違う架空の汚染なのかもしれないけど(少なくとも放射能という言葉は出てきていない)、汚染、避難などの問題は、すでにフィクションとして感じるものじゃあなくて、とても、とても身近な話題として感じることは避けられず、また演劇を観劇するようなインテリ層には、きっと考えずにはいられない現代の主題の一つであるように思える。

直球のようで、そうでないようなテーマ性。

氏が、原発や放射能汚染とうとうに興味関心があることは知っているけど、そこを目指して今回の演劇が作られたのか?と考えると、おそらくそうとは限らないのかもしれない。同じ場所に居続ける人々、崩壊した街という設定のために戦争や汚染が選ばれたのかもしれない。

東日本大震災の後に、どのような演劇がつくられてきたかは、私は知らないが、仮に氏の思いがそこにあったとしても、そこが直球で表現されてないことが、とても良かった。だからこそ、観客(私)は、考えざるを得なかったのであろう。

南鳥島ロランC局とやみいち行動。

即興的演劇行動、やみいち行動と「鉱石」を両方みたお客さんは、「あのやみいち行動の人が?」と思ったのじゃないか、と思う。やみいち行動とは、既存演劇のアンチテーゼというか、くだらんというか、ちゃんとしてないというか、普通の演劇じゃあやったらダメなこと(突然暗転するなどのオペミスなど)をやる団体で、くだらんと言いながら、バカバカしいコメディが主体になる。

鉱石は、ギャグっぽいシーンもあったけど、基本どシリアスで、出演者が話していたお客さんの感想などを聞いていると、「息が詰まる」という言葉が印象的だった。この人たちはなぜ逃げないのか?戦争や汚染という物語。合理と不合理の鬩ぎ合い。人と人とのぶつかりあい。大笑いして帰る演劇ではない。

しかし、これは超身内的目線というか、少なくともやみいち行動の本番以外の部分、稽古とかミーティング、それ以外の雑談などを共有している私は、同じ人間なのだから当然なのだけど、「根っこは同じ」と思った。「ちゃんとやっているやみいち行動」という言葉すら頭をよぎったが、流石にそれは極端な表現である。

やみいち行動においては、個人が考えている全てがフィードバックされることは難しいが、ここ数年、氏が考えていたことが、今回の鉱石で排出され、次のやみいち行動では、ある一面では「憑物がとれた」クリアーな状態でスタートされるであろう部分を期待したい。

舞台美術に電車があった。

ビラのイラストも電車だった。どちらもプロのしごとだけど、会場準備などを手伝っている時に、近くでまじまじと見ていた。専門知識はないのだけど、ものすごく特別な塗装がされている訳ではなさそうだ。少なくとも分かる範囲のことがされている。しかし、遠く離れて見ると、確かに電車であり、照明の中で映えるのもあるけれど、舞台美術を見る時特有のツッコミたい気持ちがわいてこない。「木材やん」とか、そんなの。

違和感がわかない。打ち上げで舞台美術に関しての声を聞いていると、「継ぎ目がない」という話があった。なるほど。おそらくプロの仕事なので、そこは当然なのかも知れないけど、私が違和感を感じなかったのは、そういう部分にあるのかもしれない。

久しぶりに上質な芝居を見た。

脚本、役者、演出、音響、照明、美術、制作。良かったと思う。きっと、ツッコミどころだとか、もっと形にならない思いとか、言葉というのはあるのだと思うのだけど、そこを掘り下げたり、話しあったりとかは、もういいのだと思う。そこにエネルギーを割いて、自分を演劇的に高めるステージは、私はすでにいないのじゃあないのかと思う。

つまりは、面白かったし、良かった……ということです。演劇の価値は、見た人が感じたことや、その後に考えたことなどでもあると思うけど、大人が本気でやったことにふれあうというのは、とても良いことだと思います。