大学院卒ニート、しやわせになりたい。

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価値観や認識の違いにより議論を避けたのは「味方同士だけで寄り集まる」ためではない。行間の決めつけによる悪意のある解釈しかされない場合は議論できない。

はじめに。

新幹線による焼身自殺の事件は、発生の時点からニュースで見てました。その時に、憤りエントリとして、として「死ぬな。自殺するなら、せめて人を巻き込むな」という内容のエントリを書いたら、運悪く【自称:自死遺族】のid:nuryougudaが読んでしまいました。繊細な話題を、彼の観測範囲に投げ込んでしまったのは、申し訳なく思ってました。

家族が自殺した人が読むには、感情的すぎたと思ったので、言葉を選びなおして「自殺してはいけないし、人を巻き込んではいけない。」というタイトルで書いたのですが、それに対するnuryougudaの言及への返信の途中が、この記事です。

内容的にはブロガー間の揉め事に近くなってますが、「間違った解釈をされても、書いた方の責任もあるし、真摯に受け止めるべき」という自分で書けた【呪い】を解く内容ので、同じ呪いにかかっている人がいれば、良かったら参考にしてみてください。

価値観や認識の違いにより議論を避けたのは「味方同士だけで寄り集まる」ためではない。

以下のような文章を書いてました。

人を殺してはいけない。自殺してはいけない。一番一般的な道徳として、共通認識されていると思う。この部分で「そうは思わない」と思うのは自由だけど、私の考えでは、その意見はあまり問題にしていない。そして、この部分がズレているなら、議論を交える意味は少ないと思う。

自殺してはいけないし、人を巻き込んではいけない。 - 団劇スデメキルヤ伝外超

この部分に関して、nuryougudaは以下のように書いています。

ヤルキメデスさんのような「この部分がズレているなら、議論を交える意味は少ないと思う」と言い、味方同士だけで寄り集まる方が人間の生き方として楽である。

新幹線焼死事件に見る。自爆テロへの向き合い方は社会的アサーションである - 旧玖足手帖-日記帳-


『味方同士だけで寄り集まる方が人間の生き方として楽』をしたいという意図はなかったのですが、あまりに言葉が足りなかったので、その部分の釈明をしておきます。

そもそも焼身自殺に関する事柄をブログに書いた時から今まで私は、「悪いことをしてないのに巻き込まれた人が可哀想だ」という感情から、一連の記事を書いています。「自殺してはいけない」という考えは当たり前すぎる。また、そう発しても実際に発することに意味はない。自殺はしてはいけないは死体蹴りである。色々な意見が少しですが集まりました。

集まった意見の中で、結果的に出てきた意見の一つですが、巻き込まれた人に対して全く感情的なモノが動かなく、「社会に殺された人が社会の一員に報復しても等価交換である」というような意見が出ました。それにたいして、私は「そうではない」としか思いませんでした。

言葉が足りなかった部分ですが、そもそもの価値観が著しく違う場合、議論にはならないと思っていました。そもそも交わらないので、何も生み出されないと思ってました。また、疲弊するだけで、疲弊した分に相応しいブログ運営上の利もないと思っていました。彼は、「ブログのマネタイズを進めたい」とも言っていたので。ただ、名言してしまうのは、打算的な部分なので、意図的に「意味は少ない」とボヤかしたのですが、それがそもそも良くなかったようです。

ただ、議論にはならなくても、ひとつの価値観の確認という意味はあったので、「問題にしてない」というのは、言葉は無駄に厳しく、そして浅はかだったと思います。しかし、「味方同士だけで寄り集まる」という意図はなかったことを釈明しておきます。


また、議論を交える意味として、ブロガー間の言及が他者の意見を呼び込み、お互いのブログからさらなるアクセスを生み、そこから新しい価値観などが生まれることを期待してました。「自殺してはいけないし、人を巻き込んではいけない」という、わざわざブログに書くには、普通過ぎる意見。自分でもそれは分かって書いています。しかし、そこに至るには、私の人生において大切な人の死も関わっています。その最終的に行き着いた考えに何かしらの影響を与えてくれる意見を期待していました。

あとは、同じ問題を考える時に、あまりに価値観が違うと、結果的にただ罵り合いにしかならないので、それを避けた部分もあります。価値観は少し違いましたが、ブログ『殴る壁』からの言及の「死体蹴り」のエントリは、私の価値観を一つ先に進めてくれました。ありがとうございます。

行間の決めつけによる悪意のある解釈しかされない場合は議論できない。

ここからが【呪いを解く】内容です。ネタ的な表現ですが、それが相応しいと思ったので使っています。ご理解ください。以下は、自戒の意味を込めて書いていた部分です。

自分の書いたエントリに対して、予期せぬ反応や、本意でない部分の言及があった時に、「誤読だ」とか「ちゃんと読め」などの反論は、ブログブーム的に既に終了してますし、それを書いてしまうとブロガーとしての終了だと思います。

自殺してはいけないという言葉は自殺者の【死体蹴り】ではないし、社会(見知らぬ他人)を巻き込むことは等価交換ではない。 - 団劇スデメキルヤ伝外超


もしかしたら、この一文がnuryougudaの次の乱暴な言及への正当性への【餌】になったのかも知れません。『新幹線焼死事件に見る。自爆テロへの向き合い方は社会的アサーションである』というエントリの中で、私の文章が引用されてますが、その後の引用部の解釈は、いちいちここで紹介しませんが、書いた本人的には、耐えられるものではありませんでした。

意図せぬ反応でも真摯に受け止めたいですが、限度がある。nuryougudaの私の文章の引用し、内容や行間の解釈は、引用した後の一行目から、私の意図とは大きく外れ、書き終わる頃には、私の実態とは乖離した【化け物】ができあがっている印象がありました。

決めつけによる悪い方向への断定は、強い力を持ちます。yarukimedesuなどを知らない向こうのブログの仲間たちは、yarukimedesuが化け物になっているのじゃないか?と思います。それは、別に構わないのですが、書いたことを100%悪い方向に解釈されるのであれば、議論やブログ間の言及を繰り広げたくないと思ったわけです。

余談。

余談です。nuryougudaと私は、会って話したことのある間柄です。だから、知らない人とやりとりするよりも、精神的にこたえるものがあります。今まで彼にかけた言葉も、悪い方向に解釈されていたのか?と思うところもあります。


また、そもそもの発端のエントリには、以下のような一文がありました。

僕の友だちもこんなことを書いている。

新幹線焼死事件に見る。日本に社会はない。世間体が在るだけ - 旧玖足手帖-日記帳-


私は、これまでの人生においてnuryougudaを1秒たりとも友だちだと思ったことはありません。同じサークルに所属した「後輩」であり、また、家族に不幸があった「知り合い」だと思ってました。

私は、「友だち」という言葉を、他者に対してほとんど使いません。だからこそ、友だちと思ってなかった相手に、友だちと書かれることは、少しは気持ちが和らいだのですが、そこには「過度に否定的な解釈はされないであろう」という油断があったのかもしれません。知っている間柄でも「ネット上では人格が切り離されて叩きまくる」という価値観もあるかもしれませんが、私の価値観とは、少し違うようです。知っている相手には、次に会う可能性があるので、否定的すぎる言及は避けます。焼身自殺よりも前に、nuryougudaの書いた文章に対しては、ほとんどそうしていたと思います。


少し話がそれてしまいましたが、ブログやインターネット上でのやりとりする場合に、言葉の裏を決めつけで悪い解釈しかしない人とは、私の場合は、議論できない相手です。相手の悪意を解きほぐし、お互いが納得できる答えを導き出す様々なメリットが、その労力に見合わないからです。

おわりに。

「間違った解釈をされても、書いた方の責任もあるし、真摯に受け止めるべき」と思っていて、そう書いていましたが、もしも、その言葉が『優しい人』に届いてしまって、今後【呪い】となりうる可能性があるなら。それにも限度があるし、無理だと思ったら放棄して、ギブアップしても良いと思います。みんな、そうしているのかもしれませんが、私は、今後、そうするようにします。

nuryougudaの記事は、中盤で感情で煽られて、後半の難しそうな部分はまだ読めておりません。本人にその意図はないのでしょうが、相手の感情を煽って、冷静な気持ちで読ませないというブログ間・攻撃方法は、本当に効果があるのだな、と身を持って体感中です。自分の感情を解きほぐして、もうちょっと気になる部分などをピックアップして、続きを書く予定なので、興味のある人は、また、読んでみてください。