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終末のハーレムの続編という虚無がジャンププラスに投下されたから、一言言っておくか。

ノットフォーミーという言葉は、鬼のように嫌いなのだけど、それが一番近い表現かもしれないが、その表現は使わないでおきたい。

終末のハーレムと言えば、モザイクさえかけとけば、少年誌であるという概念で、ジャンププラスがGoogleとか、Appleに怒られたりしているマンガだけど、かつては、iショウジョ+も怒られたりしていた。

ほんで、「終末のハーレム」は、なんだかんだあって男性が極端に減った世界を描いた作品であり、スピンオフもあったりするけど、その内容の大半は「いやらしい」であり、特筆すべき点は、そこだけなのだけど、驚くほどに刺さらない。

ところが、「早乙女姉妹は漫画のためなら」とかは、前作、前前作が好きだったのもあるけど、ラブコメマンガとして、私に刺さるものがあるからだろう。

だので、終末のハーレムが刺さらないってのは、私個人の感想なんだけど、なんでこんなに刺さらないかわからない。本編の正統続編が開始したけど、そもそもの期待値が低いのもあるけど、コミックス化した時に、変化のありそうな箇所をパラパラと確認しただけで、新しいシリーズの設定を頭に入れようとか、キャラクターの心の機微とかを、楽しもうとか思わなかった。流し読みで十分。

不思議なもんで、「ゆらぎ荘の幽奈さん」とかは、キャラの背景とか、術の設定とか、過去回想とか、そういう部分も楽しめたし、キャラたちの心情というのは、私に刺さった。

終末のハーレムで、それを意識して、思い返してみると、たびぶん、キャラの心情とか、設定とか、謎などを考察することが、作品を楽しむために不要と言えるからかもしれない。

たぶん「前作のあとに○○○という理由で男性がまだ極端に少なくて、XXXが原因で男の性欲が封じられている」というのが、作品背景であり、そこを巡ってすったもんだあるけど、その部分は刺さらなくて、お宝シーンをパラパラ読むだけで満足できるのじゃないかと思う。

食戟のソーマの佐伯俊先生は、食戟のソーマを連載したことで人生が変わったというけど、終末のハーレムの制作陣は、連載が終わった時に、そのようなカタルシスを感ずるのか?

「感じないのじゃないか?」というのは、読み込んでない私が思うのは、失礼な話だと思った。無印から、ちゃんと読み込んでいけば、刺さる部分もあるのじゃないか?とも思う。

刺さらないとしたら、刺さらない私の感受性を耕せば、刺さるかもしれない。だから、私は「ノットフォーミー」という言葉を嫌い。そう言ってしまうと、耕す努力を放棄しているように思えるからだ。

しかし、話題のマンガの続編が始まったけど、ジャンプラにブクマするブクマ家たちが静かだ。ブクマ集まるのは、タイミングも重要だけど、内容の過激さを考えたら、もっともっとブクマが集まりそうなもんだけど、それは、刺さらない人が多いのか、スルーした人が多いのか…それとも、タイミングか?

両方の可能性、あると思います。