はてなで話題になっていた「藤本タツキ『妹の姉』の問題点」を読みまして。URLは、記事の末尾で紹介。
記事に対する感想を、一番気になった部分だけ引用して書いてみます。
この漫画では、裸を描かれた姉はなんだかんだ平気そうだし、本当の自分の裸を描くことで妹に自分の力を見せつけている。確かに現実でもそういう少女はいるかもしれない、芸術無罪を自分が被写体になった場合にも適応する芸術家もいるかもしれない、だけど世の中はそんな人ばかりではない。この漫画の作者・これを全年齢向けで注釈なく掲載した出版社・手放しで絶賛してる方々、全員この深刻さを理解していないのだ。
藤本タツキ『妹の姉』の問題点 - ろくの日記
「世の中はそんな人ばかりではない」という言葉の裏には、「平気そう」な姉があるはずで、「そんなヤツはいねえよ」と思える人が出てくるのも、マンガじゃないだろうか。
無断で姉を描いた妹も、それを掲載した学校も異常に思えるけど、それもマンガじゃないだろうか。そこにリアリティがないと、漫画作品として絶対に成立しないとは思えない。と、同時に、引用部のような感想が書かれるのと、それに賛同する声が出てくるのも分かる。
この記事を読んでいて、一番好ましく思わなかったのは、「全員この深刻さを理解していないのだ。」の部分であろうか。一つの作品に対して、いろいろな感想があるのは当然で、「面白い」と思った人に対して、否定的になる必要はあるんだろうか。
例えば、「妹の姉」が実話を元にした作品だとしたら、妹も教師も学校も、だいぶ頭がおかしいと思うけど、フィクションがあることが前提で考えるなら、「漫画の中ではありうる」の範疇でおさまるような気がする。
「現実だったら、大変だ。だから、深刻に考えなければいけない」というのは、すべての読者が持つ必要のある観点なんだろうか。私は、そうは思わないし、引用したブログ記事もすべてを否定するつもりはない。
という感想をもった後に、「妹の姉」を読み直してみて。
ガラケー登場以前の時代設定なんじゃないだろうか。
そう思った理由。
- スマホはもちろん、ガラケーも登場しない。
- パソコンも登場しない。主人公の家は、マイカーもあるし、美術高校に通うなら、パソコンやタブレットなどは持ってそうなものだが。後半の姉の修行シーンも、デジタル的なモノは登場しない。
- 学校にやってきた家族・親戚もフィルムカメラで撮影しているぽい(カメラ本体は出てこないけど、フラッシュ音から想像した)。
- 妹の部屋にブルース・リーのポスターがはられている。
- 自習のシーンがあるけど、誰も携帯をいじったりしている様子がない。
おそらく、スマホが登場すると、妹の絵がスマホで撮影されて、SNSで拡散…など展開が広がりそうだから、作者はあえて、ガラケー登場以前の時代を描いているのじゃないか?と想像する。
もちろん、スマホが登場してないだけで、作品発表当初の現代(2018年ごろ?)の時代設定なのかもしれない。「ガラケー登場以前では?」というのは、全くの私の想像だけど、もしもそうだとしたら、作品内の価値観に対して、2019年(令和)から見たら、違和感があるのは、当然かもしれない。
ちなみに、チェンソーマンも、少し前の時代を描いている感じはある。スマホが登場しない。
妹の姉が、どのような時代設定かは分からないけど、性に関わる問題意識が、今よりは、もっともっと雑だった時代というのは、確かにあったと思う。もしも、作品の時代設定が「ガラケー登場以前の日本」であるならば、作品内の価値観に違和感が生まれるのは、当然かもしれない。
もちろん、ガラケーが世の中に出る前(1990年の前半ごろ)でも、こんなヒドイ教師も学校もねえよ!という感想はあるとは、思う。