大学院卒ニート、しやわせになりたい。

働かないで、アフィリエイトとか、ユーチューバーで幸せになりたいです。

スポンサーリンク

ネットリンチとロジカルハラスメント。

ネットリンチという言葉が分からない。分からないというのは、体感できないという感じで、そういう部分もhatenaを使っている空気感かもしれない。

この記事を書くにあたって、以下のページを読んでみた。

www3.nhk.or.jp


これを読んでも、hatenaにおける批判的ブログ記事と、それに対するhatenaブックマークによるコメント、そこからの拡散というのが、「ネットリンチ」という言葉に結びつかない。

共通点があるとしたら、対象対多数(hatenaブコメなど)という点と、批判的言及である部分であろうか。しかし、hatenaブログで書かれる全ての記事が「ネットリンチではない」とは言い切れないが、例えば、イケダハヤト氏や、はあちゅう氏への言及記事は、少なくともネットリンチという概念は、私の中で合致しない。

なぜなら、例に挙げた両名は、少なくとも文筆業などで成功していて、ファンなども多い。実際の数は分からないけど、hatenaブログ記事に沢山ブックマークが集まったとしても、それらはブログ記事の支持者ではなく、初期ブクマが集まり動き出してからは、hatena内での議論へ発展して、結果としてブログ記事が拡散していく流れがある。

だから、批判対象と、批判した側の数は不明でも、対象への圧倒的多数による「リンチ」というイメージは合致しない。ブコメを読んでいると、賛否両論になることが多い。

また、はてなブックマークは特殊な仕組みでもないから、アカウントを作れば、その議論の場にブコメとして加われるし、表示は別になるけど、Twitterで一連の話題に加わることもできるだろう。


しかし、ここ数日の一連の記事を読んでいると、「ネットリンチの親分」なる表現も見た。本文は読んでいない。hatena内では、屈指のブロガーであったし、氏が動けば(ブログを書けば)多くのブコメが集まることも多かったのだけど、それがリンチだったのか?と言えば、私の中で実感がわかない。私の中でのリンチのイメージを列挙すると。

  1. 圧倒的多数による攻撃。
  2. 圧倒的弱者への攻撃。
  3. 一斉に行われる攻撃。
  4. 圧倒的強者が扇動する一斉攻撃。

このような感じであろうか。数に関しては、既に述べた。「死ね」のIDコールが頻発した、イケダハヤト氏、はあちゅう氏を例に考えると、その二人が「弱者」では思えない。

互助会なんて言葉もあったけど、はてなブックマークコメントは、3.や4.という性質はないだろう。ただ、ネットウォッチや、批判的言及技術に長けたブロガーは、「圧倒的強者」と言える部分はあったかもしれない。

少なくとも私は、ブログでケンカを売って、勝てる相手だとは思えない。相手がケンカを買わないであろう部分も含めて。

いろいろと長々と書いたけど、hatenaブログで書かれる否定的・批判的言及の記事は「ネットリンチ」というより、「合戦」のようなイメージがあった。また、hatenaブロガーへの協力的なブコメがあったとしても、それは最初の数十にとどまり、あとは、傭兵(誰かに雇われているわけではない)がなだれ込んできて、勝手に暴れまわるようなイメージがある。

だから、私の中で「ネットリンチの親分」という表現は、しっくり来ない。ただし、「正義の味方」だとも思わない。変わりの言葉も、思い浮かんでくるのは、スナイパーとか、ケンカ屋とか、そんな感じでしっくりしたものは出てこないけど、一番しっくり来るのは「はてなブロガー」であろうか。


ここから書くのは、私の妄想のような想像です。ただ、「そんな風に思う」ということです。

ロジカルハラスメントなる言葉がある。hatenaで話題になりそうな言葉だけど、あんまりバズっているのは見ていない。最近はなんでもハラスメントになる時代だと思うけど、「正論による嫌がらせ」ということらしい。

「そんな否定できないことを私に言ってくるなんて、ハラスメントだ」という感じであろうか。そんなバカな…と思ったのだけど、理解を深めようと、ロジカルをぶつけられる側の立場に立ってみると、「反論できない正論」というのは、圧倒的な攻撃力を持ち、そこには知識や知性の差が生まれている。

つまりは、知識による暴力というか、自分よりも頭のよい人からの正論というのは、受けた側が不快になるという意味で「嫌がらせ」になるのかな…と。相手からの正論に反撃できないというのは、弱者と言えるかもしれない。

また、最近の若者は「批判する」ということ自体を嫌うという空気感があるらしい。今井絵理子議員の「批判なき政治」とか言うツイートが話題になっていたらしい。

「批判」という言葉は、いろいろなモノが含まれている。相手の人格を否定するような罵倒ですら批判の範疇に入るかもしれない。批判はどのようにされるべきか?という議論は、常にされているだろうけど、「批判はするべきではない」というのは、さすがに間違っていると思う。

しかし、もしも「何かを批判すること自体が悪」という考えが存在して、前述したロジカルハラスメントのような知性的弱者というようなことが同時進行していると仮定する。このあたりが、私の妄想である部分です。

批判されている内容の「正しさ」は理解できないけど、批判という攻撃が行われている。そして、そのブログ記事のブックマーク画面を見れば、賛同者が集まっている(ように見える)。

実際は、ネット上の意見というのは、はてなブックマークコメントだけじゃなくて、Twitterなども交えて考えれば、賛否両論の実数は分からない。ただし、前述した両名に関して言えば、はてなブックマークコメントに関して言えば、否定的な意見の方が多いのじゃないかと思う。

ネット全体での総数は関係なく、ブクマ画面を見た時に「攻撃(批判)の方が多い」と思えば、それは「ネットリンチである」ということになる。批判内容の正誤は関係なしに、ネットリンチが行われていることになる。

ブログ記事を書いたヤツが親分であり、そこにブコメを書いているヤツは、リンチに加担している。それぞれのブコメに「死ね」とか「低能」とIDコールしていることは、リンチに加担しているヤツに攻撃する正義の行い……となるわけである。

ただ、ここまで書いてみたのは、はてなブログでの言及、はてなブックマークコメントによる拡散が「ネットリンチ」と表現される理由を、私なりの理解を深めようとしただけで、福岡での事件の加害者が「ネットリンチの親分と子分」を成敗しようとか、正義の行いをしようとか、思っていた訳ではないのじゃないかと思った。

ネットリンチと決めつけた行為に対して、「死ね」とか「低能」という言葉を投げかけることで、目的は達成していたと思う。私がIDコール受けた中に、私への批判。批判というか、「死ね」とか「ゴミクズ」はあっても、批判されている対象の擁護はなかったと思う。

また、犯行声明とおぼしき増田記事には「ガス抜き」なんて表現もされていた。アカウントが凍結しても、すぐ復活する部分も含めて、ネット芸、ガス抜きなのじゃないかと思っていたが、そうじゃあなかったのかもしれない。

しかし、少なくとも増田に書き込めるアカウントはあったことを考えると、「ネット上での居場所を失った」という認識も違うかもしれない。


何かを憎しみ続けることが、自我の一部になっている状態はあると思う。自分のことを書いてみると、私の場合は実の父親と兄が、それにあたる。負の感情が高まった時は、「どうやったら殺せるか?」と考えたりする。ただ、実行しないのは、人生が大切だからである。

私が憎んでいる理由は、相手がその件について謝罪してこないだろうという部分と、私が理不尽だと思っている部分だと思う。だが、もしも憎む理由の部分を分解されて、「お前の方が悪いで」と言われたら、私はそこで発狂するだろう。

読んでいる人がいるか分からないけど、たまに、「父親殺す」系の記事を書いているのは、たぶん、ガス抜きだと思う。読んでいる読者がいるなら、「オレはこれだけ怒っている」というのを知ってもらいたいという気持ちがあるのだと思う。

だから、インターネットで憎しみや罵倒を発信し続ける気持ちは、少しは分かるのじゃないかと思っているのだけど、コミュニティルールも無視して、ロジカル的な正しさ、社会的正しさも無視して、アカウント凍結も関係なく、「死ね」や「低能」を投げ続けるという心境は、想像を絶している。

他人に悪意を投げ続けることで、保たれていた部分もあるのかもしれないが、最終的にたどり着いたのは、殺人事件だ。何が事件に発展した確定的な契機なのかは、捜査が進まないと分からないが、「死ね」のIDコール乱れ打ちが始まった時から、殺人犯となるまで、踏みとどまることは、できなかったのか…。

私も、憎しみを抱えて生きている。この憎しみが、最終的にどうなるのか。41歳になる頃には、それが関係ない人への殺意へと転化してしまうのだろうか。私は、父親や兄を憎んでいても、自分の人生は諦めたくない。また、憎んでいる相手をスライドさせて、関係ない相手を罵倒したり、そういうことは、やりたくない。

最後は、ネットリンチやロジカルハラスメントと関係ないことになったが、こんなことを考えた。