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はすみとしこの世界のサイン会の中止は抗議による言論弾圧じゃないし、書泉グランデと青林堂は開催すればよかったのじゃないか?

表現の自由を訴えるなら、批判される覚悟を持つべきである。

今、話題の以下のニュースを読みまして。

はてなブックマークでのコメントの反応も読んだ上で、思ったことを書いてみます。

サイン会の中止は抗議による言論弾圧じゃないし。

抗議の電話の集中の結果、サイン会が中止されたことを「言論弾圧」と言う勢(ぜい)がいるみたいだけど、言論弾圧ではない。以下は、はてなキーワードからの引用です。

機関や権力者による圧力で言論の自由が奪われる様。

言論弾圧とは - はてなキーワード


電話をかけたのも一般人だから、権力者や機関からの干渉ではない。というような言葉の定義よりも「言論の自由」、「表現の自由」を「批判されない自由」と勘違いしている人が一定数いるみたいだ。種々の反応を読んでいると、はすみとしこ氏本人も、そう錯誤しているのじゃないか?と思える。

もちろん、仮に暴力行為による中止を訴える抗議があったとしたら、それは、威力業務妨害などに該当するはずで、少なくともニュースを読む限りでは、そのような内容があったとは、書かれていない。


表現の自由を訴えるなら、批判される覚悟を持つべきである。氏の主張が正しいか否かは、ここでは言及しないが、内容的に批判が集まって当然の内容だと思われる。既に国際的な問題になっているし、「難民」という多くの日本人が直接的に当事者になることは少ない問題であれ、魂を大きく揺さぶられる内容であることは、間違いないと思う。

批判がきて、抗議がきて、それでも表現者として自分が正しいと信じるなら、その抗議に応える必要があったのじゃあないだろうか?代表的なイラストは、実在の少女の写真を下敷きにして描かれたと聞く。

刺激的な表現をして、誰かを意図的に傷つけようという内容を表現しようというなら、それに対する批判や抗議に大しては、覚悟しておくべきなんじゃないだろうか?

書泉グランデと青林堂は開催すればよかったのじゃないか?

どのような話し合いで中止になったのかは分からない。表現の自由的な観点から考えるなら、企画する自由はあっただろうし、批判や抗議を受けても開催する自由もあったのだと思う。

それでも、抗議を受けて、中止するなら、世の中を甘く見ていたか、覚悟が足りなかったのじゃないか?と思う。もしも、抗議内容や数から、はすみとしこ氏の身の危険などを考慮されたのであれば、その決定は正しかったのだと思う。

どのような意図で企画されたかは分からないが、抗議が来て当然の内容だということは、当事者は気付いているのだろうか?日本にも諸外国に比べて難民となって来た人もいるし、その人に近しい人もいる。はすみとしこ氏の作品は、よくも悪くも悪くも多くの人の心を揺さぶった。その肯定的な意見のみを受け取ろうとするならば、それはあまりに都合が良すぎる話だと思う。