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相手を見下すことに暴力はいらない、子どもを虐待することの弱さ。

以下の記事を読み二才。

ブッコメークしたこと・[はてな][社会]恫喝と暴力で相手を服従させるような野蛮人は「見下す」なんて精神性は、そもそも持ってないだろうな。この母親の精神的な弱さも同時に考えるべきなんだろうな。そして、こういうことは、同時進行的に今でも起きているのだろうな。

これらのことを考える時に、現在進行形で虐待されている子どもがいても、そのことには直接的には関与することは(私には)できないということを意識しつつ。

冒頭の記事は、かねがね同意なのだけど「見下す」という言葉が私のイメージとは違ったので、そこを言及してみます。

相手を見下すことに暴力はいらない。

見下すという行為は、善悪で言えば「悪」だと思いますが『見』下すわけだから、暴力とは隔絶された行為だと思いました。それは間違っていたとしても、歪んでいたとしても、相手より種々の条件を含めて、精神的に優位に立っているから、見下す訳です。それは、卑怯だったり、邪悪だったり、狡猾だったり…。

また、見下しているつもりが、周りからみたら、見下しているヤツの方がアホってことも起こりうると思いますが、私の中の言葉のイメージでは、見下していたら暴力など必要ないように思えます。

子どもを虐待することの弱さ。

冒頭の記事で題材になっている事柄は、私も以下の記事で知ってました。

この記事とか、関連する記事のブコメを眺めていると、人の子の親となっていると思われる人のブコメは同情とまではいかなくても、「子育ては大変」という意見がありました。私は、独身だから、世の中でぐずる子どもを見たとしても、親ってのはコントロールできないものか?とか、思います。

母親の精神的な弱さ。

子どもを蹴り倒している母親の弱さは、子どもとのコミュニケーションの中で、嫌がる相手を服従させるのに、恫喝と暴力を用いる辺りで、それが最終手段であり、有効な方法だと思っていることだと思います。そもそも、嫌がる子どもを蹴ってまで行かないといけない所ってどこだろうか?嫌がっている子どもは、何が嫌なのだろうか?母親も同じ扱いをされて育ったのだろうか?などなど色々と気になります。

また、移動しているということは、目的の場所や、約束の時間があるかも知れないし、衆人環視の元で子どもを蹴り倒すよりも、それらの方が優っていたのだろうか?というのも気になります。動画の中で行われている行為を人前でやる以上に大切なモノってなんだろうか?と。

私は、親の立場じゃあないので、子どもがどれくらい言うことを聞かないのか分からないのですが、同じ状況でも人が違えば、柔軟に対処できるのではないか?と思います。泣き叫ぶ子どもと優良な関係を作れないのは、母親のコミュ力の低さでしょう。血がつながっていて、自分よりもかなり年下との間柄は、最初の子が人生で初というのもありうるでしょうから、コミュ力がないのも仕方ないかも知れませんが…。

子どもは何が嫌だったのか?

ふと、自分が子どもだった時のことを思い出すと、電車に乗り込む時のホームとの隙間は、めっちゃ怖かったと思います。スーパーマリオにおける谷みたいに、落ちたら死ぬというか、二度と這い上がってこれないような恐怖がありました。

また、私は平気だったみたいですが、知らない人が異常な空間密度となる電車の中は怖い子どももいるかも知れないし、電車に乗る度に動画で撮影されたような展開になるから、駅の中などが、怖い場所になっているのかも知れない。電車で向かう先は、歯医者かも知れない。

嫌なら、嫌な理由があるはずで、少なくとも言葉が通じる年齢になれば、話し合いで解決できる…と思っているのですが、そんなに甘いものじゃあないのかも知れない。子育ては。

終わり。

暴力で育った親は、同じことを子どもに繰り返すという負の連鎖があるみたいです。「親が自分に行ったこと」というのは、それだけで正当性が生まれるのじゃないか、というのは怖いですが、そういう負の連鎖をいかにして断ち切るか…というのは、日々、考えるところです。

というのも、私の兄は親からの暴力と恫喝を受けていて、私も恫喝はされていたのですが、事ある毎に「○○は殴られなかったから」みたいなことを言われて、私は兄よりもラッキーだったのだ…と思っていたのですが、今考えると、そもそも親が子どもを殴るってどういうことやねん…という感じですが。

子どもに酷い虐待を与えたまま、お葬式になると「いい人」になって冥府に行く辺りは非情に納得が行きませんが、近年他界した祖父も生前は暴れん坊だったみたいで、その負の影響は残りまくっているので、人間というモノは業が深いと思いました。


最後に、別の話になった。