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全聾を騙ることの罪深さ。

あまり良くない感覚かも知れないですが、世の中の常識・良識の前提として「障がい者は悪いことはしない」というのが、私の中であったのですが、今日、それが揺れたし、自分の中の前提も、揺れたことも、あまり良くないことなのじゃないか、と思いました。

以下の記事読んでみて。

私は、ニコニコ生放送を見ながら、オープン2ちゃんねるの実況スレを見て書き込んでいたのですが、ともかく「設定設定!」とか「聞こえてる!」とか、そういうコメントが大きかったです。

全聾を騙ることの罪深さ。

この事件を通して語られていることは「ハンディキャップを乗り越えて」とか「現代のベートーヴェン」とか、『全聾』から派生する物語性が彼と、彼が関係した楽曲のPR材料だったことだと思います。曲を聞く側や、報道する側が結果として虚構だった物語性を重宝していたことも問題があるのかも知れません。そこにも罪深さはあるような気もしますが「困難を乗り越える、戦う」という部分を尊重したくなる気持ちは分かります。

ただ、結果として全聾ではなく難聴で、障がい者手帳は返納した、ということになって、「全聾ではないが難聴だった」に留まらず、記者会見の様子では、実況スレのレスやニコニコのコメントでは「難聴も嘘じゃないか?」、「手話通訳とか設定じゃないか?」というコメントが飛び交ってました。

私の両親は手話通訳などをやっている関係で、「聞こえない人」、「聞き取りにくい人」と接することが多いみたいで、佐村河内守さんくらいに受け答えする人はいる。言葉の内容でニュアンスは伝わることもある、などと言ってました。

本人が聞こえているのか、聞こえてないのか、そういう部分は外からは分からない訳で、一番、信頼できる部分は、診断書だと思います。しかし、最初の大きな嘘があるせいで、真実かもしれない部分にも難癖がついたり、「本当は聞こえるのじゃないか?」とか「手話通訳をつけているのは設定じゃあないのか?」と疑念が生まれることが罪に思えます。そして、この件で、同様の障がいを持つ人が、声になる以前の部分で巻き込まれていたとしたら、それも罪のように思えます。


最終的に思ったのは、佐村河内さんがプルデューサー的な立場にあったことや、新垣さんが作曲していたこと。診断書が出るなら難聴だったこと。それらを総合的に考えて、難聴のプロデューサーと、音楽家が二人三脚で作り上げた楽曲という事実の物語じゃあダメだったのかな?と思えました。

そこには、現代のベートーヴェンという物語は生まれませんが。また、実際に起きた注目度は得られなかったかも知れませんが、それが一番、誰も傷つかなかったと思います。今後、どういう報道がされるか分からないですが、診断書が出ているのだから「難聴」という部分は疑わない方が、穏やかな解釈ができるのじゃないか、と思えます。