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この世は生きるに値する、とは死にたくない理由なのではないだろうか。

宮崎駿さんの引退会見をNHKのニュースで見ていて、関連エントリを読んだりして、改めて「この世は生きるに値する」という言葉を考えたくなりました。世界と自分。主体は自分。価値がなかったら死ぬのか?死ぬ時は価値がないから死ぬのか?

あまり実感はないけれど、数年前に『自殺』というモノを考えた時に、考えていたことを書いてみる。考えてみる。


楽しいことがあれば死なないですむ。死にたくないと思えたら、それは世界に価値があるのじゃないか?と思える。それは、宮崎監督の言葉とは、違うかも知れない。

死にたくないと思える理由。それを考える前に「死にたくなる理由」を考えてみる。私の人生的に、一番、自殺にテンションが向かったのは、二度目の大学院の留年が決まった時だろうか。今思えば、大学院で留年したことが「死」に繋がるのか?と言えば、春先になると、そんな検索結果が増えるくらいだろうか。

留年したのは、私が不真面目な学生で、その結果で、いろいろとだましだまししていたことが、全て噴出した結果。しかし、教授にも、両親にも、見捨てられた感覚は、頭がどんどんと冷えていく感じで、自分がこの世に必要ない、と思えてきて、死ねば助かるじゃあないけど、そんな風に思わなかったけど、死のうと思ったのは確かだった。しかし、ナイフを手首に押し当てるとか、そんなこともできなかった。

多分、あの時、死ぬべきだったようにも思えるし、死ななかったけど、そんなに状況も変わってない。インターネットで見知らぬ人が、この文章を読んだら、きっと「死ねカス」って思う人もいるだろう。

ここで、世界を考えてみるが、もしも、その時に私が死んだとしても、世界に殺された訳ではないだろう。大学院と親に殺されたって訳でもないだろうけど、私の心にくるものがそれだったら、人か、社会か。大学院を留年して、自殺したら、それは自己責任なのかも知れないけど。

しかし、その時、死んでないけど、死んだ理由を『世界』くらいに置換えないと、立つ瀬もないように思える。使い方間違っているかも知れないが。しかし、世界の価値を考えてみて。世界というのが、社会であり、社会というのが、人の集合体で考えると、世界の価値とは、個々人の持つ価値が蓄積したモノだと考えられるかも知れない。

私が、当時触れた価値は、大学院を留年する、もしくは中退するのはこの世の終わりくらいの価値としか触れなかった。いや、当時助教授だった人は、本当にやりたいのは演劇だろ?とか言っていたので、また違う価値があったのかも知れない。

これまで何度も振り返ってきた大学院留年の暗黒時代をまた振り返っていた。当時死にたい気持ちになったのは、「留年しても死ぬことないぜ」という考えに触れなかったからだろう。留年したら死ね、という考えに触れたわけでもないが、冷えた心は温まらないと、どんどんと冷えていく。


暗い話はこれくらいで、死にたくないと思える理由を考えてみる。元がアニメ監督の宮崎駿さんの発言からきているから、アニメで考えてみる。ここ数年だと、ヱヴァ破を観た後は、『Q』観るまでは死にたくない!と思った。今は、シン・エヴァを観るまで死にたくない!とは思わないけど、死ぬような気持ちになりそうにもないから、まったりしている。

ここで、値すると言う言葉を価値があるという風に置換えて考えて書いてきたことが、そもそも間違っているのじゃないか?と思えるけど、観たいアニメ作品が生まれる世界というのは、生きるに値するのじゃないか?と思える。

アニメやマンガに興味がない人は、テレビドラマとか、映画とかに置換えてもいいかも知れない。水戸黄門は昔、前後編の話もあったそうだけど、当時の視聴者層からの声で「私達の年だと後編を観る前に死ぬかもしれない」というものがあったらしく、しばらくは一話完結だったそうな。終盤は、シリーズの話もあったような。

話の流れからすると、後編まで一週間生き抜く!の方が相応しいかも知れない。けど、そんな話を思い出した。


ちょっと思い出してプラネテス3巻の作者コメントを読んでみた。続きが気になるから目の前の自殺志願者が自殺をやめるくらい面白いマンガが書けたらなぁ…という内容だけど、マンガにおいても、「生きるに値する」は生まれていると思う。ワンピースが終了するまで死ねない!とかでもいいかも知れない。


書いてみると、宮崎駿さんの発言の趣旨とは全然違う感じのことを書いているように思えた。「生きるに値しない」ということが、即自殺などに繋がらないのかも知れないけど、「生きるに値する」ということで、このようなことを考えた。

本当は、生きるとか、死ぬとか、そういうことを考えないで、ただただ生きていくことができればいいのだけど、自殺や、自殺じゃなくても、人が人を殺すことが不思議ではない社会において、「生きる」ということは大事なことのように思える。

後、生きるに値する世界というのは、きっと、他の人の命も奪わない世界なのかも知れない。ただ、本当に心が冷えて、もしくは熱されて、死んだり、殺したりする極限においては、どうしようもないことなのかも知れないけど。

そこまでは、この記事ではカバーできないけど、生きていれば楽しいことがあるとか、逃げる場所があるとか、そういう死なない理由、死にたくない理由を作り出すことが。それらがあることが。もしくは、そんなこと考えないでよい状態が。

「この世は生きるに値する」なのじゃないか。と思った。私も、年に2回ほど芝居をしているから、死んだらナカノ実験室の愚かな演技を観れなくなる…とか、思ってもらえることは、きっとこの先の人生でないだろうなあ。