最初に、このエントリの核心であるブコメをもらっていたので、紹介します。
ドラゴンボール全編の感想:孫悟空が殺した敵と殺さなかった敵。 - 団劇スデメキルヤ伝外超セルの危険性をほったらかしにする悟空をみんなが呆れる程度で済ませた時点で現実的解釈が出来ない世界になったわ
2015/06/12 10:31
ドラゴンボールは、後半は特に、「戦わなくても解決できる」、「一人で戦わなくても解決できる」という状況が出てきます。しかし、そうしたら、物語の見せ場である『バトル』ができなくなります。なので、そうならないために、強引であってもセリフなどで解決してしまうのは、『展開の都合』と割りきって考えてしまうのも、いいのじゃないか?と思います。
そのあたりを、じっくり読もうと思ったけど、一気に読んじゃったブウ編を中心に考えてみます。
展開の都合?
- 本気を出せば地球を破壊する力を持つキャラクターが多数。
- 多少、人間が死んでも、ドラゴンボールで生き返らせられる!という発言の連続。
- 最終的に「戦いたい」というサイヤ人の本能?
多くの感想の中で『人命軽視』と呼ばれる部分。最近のマンガなら、「それでも命は尊い」というセリフがありそうです。魔人ブウが、地球人類を殺戮しまくっているけど、天界でのんびりとフュージョンの練習を眺める人々。別のシーンでは、時間つぶしにトランプをしていたり…。
また、最終的にポタラ(合体の道具)もフュージョンも使わないのは、勝算はある程度ある上での「一人で戦いたい」という発言。サイヤ人の本能的な部分なのかな?と。
悟空やベジータに助けられる側の人間は「悟空に助けてもらってなかったら、どうせ死んでたし、好きにやったらいいよ」みたいな、ものすごい割り切りを見せます。このあたりは、展開の都合なのか、鳥山明先生の人間性の延長なのかを考えてみると、味わい深いかもしれません。
パワーインフレ問題。
思えば、ブウ編の一つ前のセル編のラストで「太陽系を吹き飛ばす」ほどのエネルギーをセルが集めている時点で、地球で戦うには無理があるパワーインフレが進みまくっている気がします。
なので、ブウ編でも敵は、地球を壊したら一気に終局を迎えるので、人類の殺戮を楽しみます。そのために、主人公達は多くの命を、多くの死を「ドラゴンボールがある!」で解決させてしまうのは、人間として破綻しているというより『展開の都合』と考えた方が、私にはしっくりくるかな?と思いました。
また、展開の都合で切り捨てられるモノの中で、掘り下げれば暗い話の連続になるので、作者がキャラを使って割り切っている感じもしました。第25回天下一武道会の中で、自分の旦那が数百人の一般人を殺したブルマの心境とか、悲しんでない訳じゃなあいけど、数ページに渡って、掘り下げたとして、それが読者が読みたいモノだったのだろうか?
「でぇじょうぶだ。ドラゴンボールがある。」
わりと鳥山先生は「描きたくない」も多い人みたいで、クリリンと18号の馴れ初めも構想的にはあったみたいですが、省いたそうです(Wikipediaで読んだことです)。
余談・私と展開の都合。
余談です。私も、学生演劇時代は脚本を書いて、今は、時々小説などを書いてますが、「展開の都合」に出くわすことは、多々ありました。物語の中で指摘しなかったら、読んだ人に「作者はこんなことに気づかないのか!アホか!」と思われるので、指摘はします。
しかし、掘り下げると、物語が成立しなくなる。別の方向に向かう。そういう場合は、多少無理があっても、別のルートを作り、解決させます。鳥山明先生の心境は分かりませんが、こういう部分は物語を作る人、作った人は、共感できるのじゃあないかと…。
(私だけだとしても、別にOKです)。
いきあたりばったり?おわり。
「展開的に無理がある」なんてことも多々思いながら読みましたのですが、1巻を読んでいると、「いきあたりばったりで」という作者コメントがあるので、最初からそうだったのは、仕方ないかな?と思いました。
「いきあたりばったり」なのだから、急に魔界とか魔神とか出てきちゃうのも、仕方ない。
1巻の時点で「終わり方」は決まっていたそうですが、それはどこまでなのか?マジュニアとの対決と主人公の爽やかな結婚がラストで考えられていたとするなら…。
- ドラゴンボールを作った存在。
- 神の住む場所、カリン塔と神殿。
- 如意棒の本当の役割。
- ピッコロ大魔王は神の中の悪の心。
ぐらいの構想の下敷きは想像できますが、もしも、神はナメック星から来た異星人というアイデアがあったならば、フリーザ編も開始時点で構想されていたことになるわけですが…どうなんでしょうねえ。