ドラゴンボールが(ひさしぶり、何度目か)にはてな的注目を集めています。関連記事を読んでいる中で、以下の一文が気になりました。引用です。
ヤンキーイズムな暴力評価軸に“サイヤ人”“気”などの設定、能力を持ち込んだ世界観。
非暴力の正しさはその世界にはなく、必ず敵は倒さなければならない。
倒す→殺す、ですが。
すてごろのケンカバカである悟空にとっての正しさは強さ。
ドラゴンボールの幼児性と非日常なモラトリアム - あざなえるなわのごとし
また、「暴力主義」なる言葉も使われてます。同じ作品を読んだ感想なのか?マジで?と思ったのですが、「倒す→殺す」という印象は私の中でまるでなかったので、ストーリーを思い出して、殺した敵と殺さなかった敵に関して書いてみます。
なお、それぞれの編のボス的存在のみに言及します。
ピッコロ大魔王編
最初のピッコロ大魔王は、激闘の末にマジュニアの卵を産んだ後に、爆散。殺害と言えば殺害だが、世界が征服される寸前になっていた。
青年になったから天下一武道会でマジュニアと決勝で対決。マジュニアは、殺していない。仙豆を食べさせる。
サイヤ人編
ラディッツは、ピッコロと悟空が力をあわせて、倒して、最終的にピッコロが殺害した。魔貫光殺砲を使って瀕死の状態に追い込んだのは、孫悟飯が殺されそうになったから。
ナッパはベジータが殺した。ベジータは、クリリンがヤジロベーの刀で殺害しようとしていたが、悟空の「もう一度ベジータと戦いたい」という理由で、見逃した。
フリーザ編
ザーボン、ドドリア、ギニュー特戦隊など多くを殺害したのは、ベジータ。
フリーザは、気を分け与えて助けようとしたけど、最後の最後までフリーザが自分が一番だと信じてやまなかったので、倒した。ただし、結果論として死んでなかった。
魔人ブウ編
バビディは、ブウに殺された。
一番最初のブウは、ミスターサタンと暮らしている。最終的にウーブに転生したブウは、悟空が地球人全員から集めた気の元気玉で消滅させた(殺した)。しかし、ウーブへの転生の便宜を図ったのも、悟空。
ちなみに、ミスターサタンは魔神ブウにたいして、言葉による交渉を試みて成功している。「暴力主義」という言葉が相応しいかは別として、孫悟空にはできない解決手段を見せた。
実は、同時進行でブウ編を読み返しているのだが、サタンのように上手くいかなかっただけで、悟空は魔人ブウに言葉による説得を行っている。
暴力主義???
「殺さない」選択をしている一方で、最終的に殺しているケースも多い。多くの場合は、世界の存亡や、自分の生命の危険が関わっている場合が多い。フリーザの場合は、爆発するナメック星から自分が逃れる時間も必要だったために、最後の生存のチャンスを与えておきながら、とどめを刺すにいたっている(ただし、フリーザは死んでなかった)。
セル編のラストは、特に孫悟飯は、「殺す」という言葉を多用していたように思える。しかし、「悟空にとっての正しさは強さ」という印象はまるでなかった。あざなえさんの記事では紹介されてなかったが、私が読んだ記事に、「悟空にとっての正しさは強さ」という理解に対するアンサーがあった。以下は、引用です。
悟空は何のために戦うのか。悪の敵を倒すためではない。仲間や市民を守るためでもない。悟空は戦うことを通してより良い人生を送るために、人生をより良いものとするためにこそ戦うのだ。「不当な力で自分もしくは正しい人々をおびやかそうとする敵」に「ズゴーンと一発かます」のは、あくまでそのついでに過ぎない。
「ドラゴンボールはフリーザ編で終わってたら名作だった」とかのたまう輩に鉄槌を下しブウ編がいかに最終章として素晴らしいかを力説するための覚え書き - 銀河孤児亭
また、「ヤンキーイズムな暴力評価軸」とあるが、亀仙人は、武道にたいして「相手に勝つではなく、自分にまけないため」という意味の言葉を発している。これこそが、「ヤンキーイズム」とは真逆の言葉ではないだろうか?
余談。
冒頭で紹介した、あざなえさんの記事には、以下のような一文がありました。引用です。
悟空にしろ働きもせず修行や狩りで生きていて生活は牛魔王の貯金を切り崩したりしているのかもしれないし、あるいはブルマ辺りが経済的支援をしてるのかもしれない。
孫悟空が生前に労働をしていたか、言及されていたかは覚えてない。ただ、死後は、孫家の家計は牛魔王の財産で賄われていた。孫悟飯が、グレートサイヤマンとして天下一武道会に参加をチチ(母)が反対しなかったのは、「財産が減ってきた」からである。
結構、印象的なことがらだったので、私は覚えていたのだけど、このエントリを読まれたみなさんは、どうだろう?