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面白い地の文が書けないから小説が書けないって何でしょうね?

先日、とある演劇企画の仕込み会場に遊びに行っている時に、小説の地の文の話が出た。氏曰くは「面白い地の文が書けないから小説は書けない。でも、台詞は書けるから脚本は書ける。」なんてことを言っていた。

なるほど、台詞は誰かが発した言葉である考えると、それはそうな気もするけど、台詞も含めた戯曲の文学性を考えると、地の文と台詞の違いとはなになのか?と思えるが、本題とは外れるから今回はスルー。

私の書く小説は、地の文が主人公視点の文章だったり、神視点の文章の場合は私の心情が反映されたもので、少なくとも「書けない」というレベルでは悩まない。書けるのは書ける。面白いかどうかは、書いた本人は面白いと思っている。だから…。

面白い地の文が書けない?

という感覚は分かるようで分からない部分がある。自分では面白いと思っているけど、他の人が面白いと思っているかはどうかは分からない、という感じ。だから、地の文が影響して、「小説が書けない」というのは、書き手の方の要求スペックが高すぎる問題で、本来的には、何でもいいから書いてしまって、読まれてしまって、それで判断するほうがいいのでは?と思える。

私は、小説は書くけど、あまり読まないから、地の文の要求スペックが(たぶん)高くなく、今後自身の小説の参考に読むのは星新一作品の限定で良いのじゃないか?と考えている。

だから、彼の言った「面白い地の文」というのは、理解できてなかったのかもしれない。

面白い地の文とは?

一くくりの考えるのは難しいが、①小説世界で起きたことがらを、②どのような文章表現で伝えるか?ということじゃないか?と考えた。面白さを数式的に考えてみると、面白さ=①×②みたいな感じだろうか。そこに言葉の選定やリズムも関係したり。

この考えで行くと、①朝起きて朝ごはんを食べるという事実も、②巧みな文章表現を用いたら、かなり面白くなるのじゃないか?と思えた。でも、その逆に、どう考えてもそれだけで面白い①というのもあるのじゃないかと思える。

おしまい。

と、色々と考えて、自分が小説でやりたいと思っているのは、面白い①を自分の切り口や内面から出して行きたい…ということだった。②に関しては色々とインプットがあったほうがいいのだけど、この年から下手に読みまくると、影響だけ受けるのじゃないか、と思って怖くて読めていない。西尾維新先生のめだかボックススピンオフ小説を買ってきたのに、未だに読んでないのは良い思い出。

ただ、文章表現的な部分を含めて、面白い地の文、読ませる地の文が求められているなら、小説賞に投稿するときとかは、必要になってくるのかな、と思ったり。限界天井がないので、面白い分野ではありますが。