maminismさんからの寄稿です。
知人が亡くなりました。
私の、近くて遠い人が亡くなった。
お葬式で、献花をした。
娘が悲しくなったようで、泣いていた。
私も泣いた。
亡くなった人を目にするのは、
これで人生2度目。
1度目は、まだ学生の頃だったので、その時の記憶はあるものの、感情や感覚は覚えてない。
今回、私は初めて、死というものを、少し客観的に理解する事ができたような気がした。
理解というより、死というものの入口に触れられたような感じ。
その人は、人形のようだった。
彫刻や蝋人形がどんなにその人そっくりに造られていても、それが生身の人間とはどこか絶対的に違うことを、私は感じる。
人形がその人そっくりであればあるほど、私は大きな違和感を感じていた。
それが何なのかが、その時わかった。
命がないことへの違和感だった。
だから、本人を目の前にすると、どうして悲しくなるのか、よくわかった気がする。
献花の時、私は、自分は生きているのだということを、強く感じた。
それは同時に、目の前で横たわっている人に命がないことを、より強く実感させられるということだ。
私はその人に触れることができなかった。
触れたかったけれど、怖くてできなかった。
死をこの手でより強く感じるのも怖かったし、
この人との心の距離の遠さをさらに実感するのも怖かった。
私は生きているんだな。
彼女のことを思うたび、
感じる。
彼女のことを思うたび、
私のこの手も、血の通った、生きた手であることを、改めて感じる。
私は生きているんだと。